ラベル

2023-11-29

4-4 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』

 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』Acts of Mercy 1977
Barry N. Malzberg(1939-) Bill Pronzini(1943-)
高木直二訳 創元推理文庫 1992.7

 『裁くのは誰か?』は、いわゆる一つの「大統領ミステリ」だ。

 大統領の身辺で起こる連続殺人。魔手はやがて大統領自身にまでおよぶが、大統領は持てる明敏さを総動員して事件を解決していく……。

 アメリカ国家の大統領は公選によって選ばれる最高権力者だ。民主制度の国是というのか、ミステリとは縁が深い。じっさいにリレー短編の筆を取ったルーズヴェルト第三十二代大統領もいる。

 最近では、ホワイトハウスを題材にしたポリティカル・フィクションに大統領が登場するケースも増えている。またハリウッド映画で大統領役を演じたスターのリストも年ごとに膨大なものとなる。

 大統領本人が愛読ミステリを公言することは、支持率アップのための対策でもあるようだ。レーガンはトム・クランシー。クリントンはもっとマイナーにウォルター・モズリー。現大統領はおそらく、ないだろう……。

 しかし『裁くのは誰か?』のような大統領の登場の仕方はたぶん前例がないだろう。禁じ手はあるのか否か。最高権力者とはいっても、どこかの「国王」と違ってタブーはないのかもしれない。

 少し前にトリッキー・ディックと仇名された第三十七代大統領が不名誉な形で退場している。政治家としての功績はそれなりに評価されるべきだという意見もあった。しかし悪役イメージは常に彼にはついて回った。ウォーターゲイト事件は、今では現代史の欠かせない一項目となっている。事件に関して、ニクソンは嵌められたのだという解釈も一部にはある。『大統領の陰謀』1974(文春文庫)を書いたジャーナリストの一人ボブ・ウッドワードが、データのリークを受けていたという説だ。その論拠は、ウッドワード記者とCIAおよび保守財閥とのコネクションだ(広瀬隆『アメリカの保守本流』集英社新書)。

 仮にそれが事実であったとしても、ニクソンへの同情票は集まらないだろう。自分の上を行くトリックに引っかけられたことで、さらに悪名は高まるかもしれない。

 事実でなかったとしても――。なぜ『裁くのは誰か?』のようなミステリが突如として出現してくるのか、その理由を納得できるに違いない。この小説のサプライズ・エンディングは、大統領職の聖なる椅子という盲点を利用したものだ。見えすいたトリックを隠すための裏技に大統領制度は使われた。これを読むと、カー派の馬鹿騒ぎが完全に過去のものではなく、ささやかな水脈(パズル派の伝統といってもよい)としてひっそりと息づいていることを理解できる。

 作者の一人プロンジーニは、パルプマガジン・コレクターの探偵を主人公にしたB級ハードボイルド・シリーズも書いている。アンソロジストとしても活動し、この作品からは、いかにもうるさ型のマニアぶりが伝わってくる。

2023-11-28

4-5 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』

 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』Dance Hall of the Dead 1973
Tony Hillerman(1925-2008)
小泉喜美子訳 早川書房1975 ハヤカワミステリ文庫1995.7 


 黒人刑事、黒人私立探偵の登場は、局地的な出来事ではなかった。ジョン・ボール『夜の熱気の中で』1965 は、南部の田舎町で起きた殺人事件を解決するために、黒人刑事が奮闘する話だ。ボールの黒人刑事シリーズは後に三作つづく。

 中国人刑事チャーリー・チャンのシリーズやJ・P・マーカンドの日本人間諜ミスター・モトのシリーズを思い浮かべるまでもなく、ミステリは異人種排撃を原理的に謳っていたわけではない。作品を捜せばむしろ社会の寛容さを証拠だてる例が見つかるだろう。それでもまだ、六〇年代にいたっても、マイノリティのヒーローは充分に一般化したとはいえない。

 ボールと前後して、ケメルマンがユダヤ教のラビを探偵役としたシリーズの第一作『金曜日ラビは寝坊した』1964 を発表した。これは、短編集『九マイルは遠すぎる』をゆったりと書き継いでいた作者の、ユダヤ人コミュニティ研究の副産物ともいえる。力点はこちらのシリーズに移っていく。


 マイノリティ・ミステリの最も重要で長命なシリーズはトニイ・ヒラーマンによって、もう少し後に書かれ始める。『祟り』1970(角川文庫)に始まり、『死者の舞踏場』『黒い風』1982、『時を盗む者』1988、『聖なる道化師』1993(ともに、ハヤカワミステリ文庫)などとつづく、ナバホ先住民居留地シリーズだ。文化衝突の諸相、そして自然環境との交感。彼のシリーズが示すのは、通り一遍の共感や良識では、作家はこのテーマに立ち向かえないという当たり前のことだ。ヒラーマンはプアホワイトの家系に生まれ、インディアン寄宿学校で学んだ経験を持つ。

 アメリカのマイノリティのうちで、黒人と「インディアン」とは特別の存在だ。作者は、部族に残る風俗や伝承的儀式などを大胆に取りこんでいった。部族社会とはつまり、国家に囲いこまれた「統治地」だ。伝統も日常もそこに住む者にとっては絶えざる衝突の場なのだった。シリーズは文化人類学的アプローチがミステリに寄与する豊かな実例となっている。


2023-11-27

4-5 エド・レイシー『褐色の肌』

 エド・レイシー『褐色の肌』In Black and Whitey 1967
Ed Lacy(1911-68)
平井イサク訳 角川文庫 1969


 レイシーは最も早く、そして意識的に黒人探偵を登場させた書き手だ。『ゆがめられた昨日』の主人公の名は、トゥーサーン・ルヴェルテュールとマーカス・ガーヴェイから取られている。

 『褐色の肌』の舞台はニューヨークのゲットー。白人居住区と隣接する地域。そこで黒人少女が射殺される事件が起こった。KKKまがいの黒人差別集団が動き始める。

 若い黒人刑事リーは相棒のユダヤ人アルとともに潜入捜査を命じられる。物語は彼の視点から語られていく。社会運動家を装って潜入した彼らの前に、ゲットーの現実がたちふさがる。この作品の背景にあるのは、六〇年


代後半に頻発した人種都市暴動だ。

 とはいえ、物語そのものはドキュメンタリー・タッチで淡々と進んでいく。ラストに到るまで派手な事件は抑えられている。テーマにたいする作者の真摯な取り組みは疑いようがない。マルコムXやフランツ・ファノンに関する議論も出てくる。作者はさまざまなタイプの黒人を描き分けるべく努めている。主人公の潜入捜査官の内面は、恋人や相棒との葛藤で揺れ動く。警察小説というより、青い青春小説の苦さが強い。

2023-11-25

4-6 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』

 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』The Choirboys 1975
Joseph Wambaugh(1937-)
工藤政司訳 早川書房 1978

 『クワイヤボーイズ』をできるかぎり簡単に説明すれば、警官版『キャッチ=22』となるだろうか。

 とはいえ、ウォンボーは元警官作家として、多少の誇張は加えたが、想像力を羽ばたかせたわけではない。彼は一時期有力な警官出身の書き手だった。素朴に体験から出発し、ヒーローとしての警官の物語を発信しつづけた。彼の作品は、警察小説というより警官小説と称されるのがふさわしい。

 『クワイヤボーイズ』の発表年がアメリカのヴェトナム敗戦と一致していることは象徴的だ。その後おびただしく描かれることになる復員兵士のトラウマの諸相が、この小説のなかにはすでに満載されている。警官こそその傷痕に率先して晒されるのだという作者のメッセージを差し引いても、痛ましい質感がある。


 物語の主人公は十人の制服夜勤パトロール組警官だ。彼らは、勤務あけの夜中に、公園で乱痴気パーティをひらいて憂さ晴らしする。それでやっと精神の平衡を保っているというわけだ。聖歌少年隊〈クワイヤボーイズ〉だ。

 十人は二人組のコンビを一単位として紹介されていく。ウォンボーの世界の特質だが、ストーリー性はごく希薄なまま、配列されたエピソードの輝きで成り立っている。輝きというより『キャッチ=22』的な狂騒だ。狂執は物語に内向するのではなく、語っている作者自身が狂っているのではないかと思わせる。「はじき」〈ロスコー〉とか「なんちゅうた」〈ワッデヤミーン〉など、彼らの通称が雄弁だ。

 そしてやりとりされる人種差別ジョークの強烈さ。まともに受け止めるとあまりに刺激が強い。レイシズム・ジョークの味わいは、最近は、かなり一般化しているようでもあるが、事は要するに、裸の差別言葉の激突だ。差別を知らず差別語にだけ堪能になるとはいかがなものか。スマートに翻訳するのは不可能な世界の会話だと思ったほうがいい。

 ウォンボーはともかく、ヴェトナム世代の影について素晴らしい饒舌さで語った。一つひとつのエピソードは、現実に即しているだろうという意味で、シンボルにはなりがたい。『キャッチ=22』のような普遍性には到らないけれど、固有の悲喜劇性はありあまるほど備えている。

2023-11-24

4-6 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』

 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』Blue Eyes 1975
Jerome Charyn(1937-)
小林宏明訳 番町書房イフ・ノベル 1977.5 


 『ショットガンを持つ男』『狙われた警視』1976、『はぐれ刑事』1976(ともに、小林宏明訳 番町書房 イフ・ノベルズ)の「はぐれ刑事」三部作にとって、レイシズムはジョークの源泉〈ネタ〉ではない。物語のテーマそのものだ。

 三部作は、ラテン系ユダヤ系移民のファミリーとニューヨーク市警との骨肉の抗争を描く。トーンは、リアリズムとは少し違う。ファミリーとはいえ、ゴッドファーザー風のホームドラマの構成もない。犯罪集団も現場の刑事も同じ運命共同体の一員だ。これではとても警察小説の枠には収まりきらない。

 ラテン系ユダヤ人とは、マラーノと呼ばれるマイノリティ集団だ。マラーノのギャングの頭目パパ・ガズマンは五人の娼婦に産ませた五人の息子を持つ。末っ子のシーザーの他はみんな


知的障害者だ。別名を死神〈ミスタ・デス〉と呼ばれるパパ。そしてパパを取り巻く人物たちは、ことごとく二重に疎外されたマイノリティだ。記号が二つつく。ダブル・ハイフン付きアメリカ人だ。

 『ショットガンを持つ男』の主人公は、ユダヤ系ポーランド系の刑事。対抗する殺し屋は中国系キューバ系。とだれもが二重に入り組んだ出自を持たされている。しかも刑事はユダヤ系なのに、ブロンドで青い目をしている。彼のことを怖れる情報屋の男は「青い目をしたユダヤ人なんて、悪魔に違いない」と思う。その男はアルビノで肌の白い黒人なのだ……。

 チャーリンの世界では、ジョークがそのまま人物造型に直結している。シュールレアリズムのような世界だ。彼らが、警察


と犯罪者集団とに分かれているのは表向きのこと。みな幼な馴染みで、同じ共同体に属している。刑事かアウトロウかは、大した意味も持っていない。彼らはみなグロテスクに非アメリカの世界を生きている。その頂点に君臨し、彼らを束ねるのが、マラーノのゴッドファーザーたるパパなのだった。

 彼らはコミックブックのヒーローなのか。それともポスト・レイシズムの戯画を先取りしているのか。

2023-11-23

4-7 トマス・ブロック『超音速漂流』

 トマス・ブロック『超音速漂流』Mayday 1979
Thomas Block(1945-)
村上博基訳 文藝春秋 1982.6 文春文庫 1984.1
改訂版(ネルソン・デミル共著 村上博基訳 文春文庫 2001.12

 このページまで扱ってきた作品はおおむね、過去に属している。P・K・ディックを奇跡的な例外として。

 七〇年代といえば、もう自明に回顧の対象だ。この項目であげる三編は、その時代よりもむしろ現在に作品的意味が延長しているとみなしうる。境界にある。充分には過去に退行していない産物だ。


 『超音速漂流』は航空パニック・サスペンスの古典といわれる。ネルソン・デミルが共作者としてクレジットされ改定新版1998も出た。旧版がブロックの単独名義だったのは、二人が友人として協力し合ったこと、ブロックが現職パイロット作家だったこと、デミルがあまり有名になっていなかったことなどが理由だろう。

 ジャンボ・ジェット旅客機が、テスト中のミサイル誤射を受け、機長は死亡、無線機も使用不能という危機におちいる。生存者は漂流する機をなんとか着陸にもっていこうとするが、失策を隠すために軍は非常手段に出ようとして……。パニックが機体の内と外とから来るという絶体絶命の状況を描く。


 七〇年代には旅客機のハイジャック事件が急増した。「金曜日はハイジャックの日」といわれるほどに頻発した。ハイジャックの時代が作品にまで反映していったのも当然だ。現実が航空パニックものというジャンルを産み落とした。ジャンボ機消失の謎を描いたトニー・ケンリック『スカイジャック』1972(角川文庫)、同じくジャンボ機の空中からのハイジャックを描いたルシアン・ネイハム『シャドー81』1975(新潮文庫)といった傑作がある。それらは『超音速漂流』に抜かれた。

 新しいところではジョン・J・ナンス(やはりパイロット作家)の『メデューサの嵐』1997(新潮文庫)があるが、『超音速漂流』の上を行く作品はまだ現われない。

2023-11-22

4-7 トレヴェニアン『シブミ』

 トレヴェニアン『シブミ』Shibumi 1979
Trevanian (1931-2005)
菊池光訳 ハヤカワ文庫 2011

 トレヴェニアンは、アメリカの物質主義とタフガイ指向への反対者として、自らを位置づけた。彼の描く国際謀略小説は知的なパロディのように読める。『アイガー・サンクション』1972(河出文庫)の主人公は大学教授で登山家。名画コレクションの資金作りのために暗殺を請け負う。こうした設定によって、作者は007シリーズなどに冷笑を浴びせているのだろう。

 『シブミ』では冷笑ぶりは変わらないが、主人公の造型はいっそう複雑さを増している。ニコライ・ヘルという男。孤高のテロリストが対決するのはCIAをも包括した「マザー・カンパニイ」と呼ばれる巨大謀略組織。アラブ過激派とユダヤ人報復グループの暗闘という、それらしい導入部はつくられているが、全体が冗談話のように感じられなくもない。


 タイトルの『シブミ』は(作者の理解するところの)日本的精神主義から取られている。いかにも、アメリカの物質主義に反対して物質主義のエッセンスのようなスパイ小説のパロディを書いてみせた作家らしい所業だ。武士道の対極に「渋み」があるという。章題も囲碁の用語から流用され、作者は、物語の進行そのものを囲碁の対局に擬している。主人公の造型をみると、こうした凝りようがたんに奇をてらった高踏趣味でないことがわかる。ニコライ・ヘルは無国籍の断片から成り立っているような男だ。第一章「布石」に登場する彼は、スペインのバスク地方独立主義者の仲間とともにいる。そして物語は、ニコライの出生を追って、数十年前の上海に飛ぶ。彼は、亡命ロシア貴族とドイツ人の血を引き、占領日本軍の将軍に育てられる。軍

国主義のふところにあって学び、反武士道の精髄を身につける。そして戦時下の日本に移り、敗戦をくぐり、占領軍の下部職員となる。そこで恩人である将軍と再会する。将軍はA級戦犯として連行されてきた。この不幸な再会が一人のテロリストを誕生させたのだった。

 ばらばらの要素を継ぎ足して構成されたような男。シブミの精神で自己を律する。これがアンチ・ヒーロー性の実例だ。謀略小説の主人公に与えられた伝記的事実としては不必要に長く、重たい。

 作者には、他に、警察小説『夢果つる街』1976、サイコ小説『バスク、真夏の死』1983(ともに、角川文庫)がある。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...