ラベル

2023-12-16

3-7 ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』

 ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』Devil Take the Blue-Tail Fly 1948
John Franklin Bardin(1916-81)
浅羽莢子訳 翔泳社 1999.10、創元推理文庫 2010.12

 時代に先んじすぎた作品は、しばしば気の毒な軌跡を強いられる。『悪魔に食われろ青尾蠅』も異常心理を迫真的に追いつめる筆致によって、発表当時は不遇をかこった。マクロイやバリンジャーのケースにも明らかなように、サイコはまだ一編を満たすテーマとは意識されていなかった。バーディンは、認知されていない領域に正面突破をはかったとみなせる。

 話はヒロインが精神病院から退院する朝から始まる。ストーリーはひたすらこの女性の内面に粘着して進行していく。彼女のなかに現われてくるのは忌まわしい分身だ。過去に受けた家族からの虐待、記憶のひだにまつわりつく殺人。サイコ・ミステリの基本的な小道具はそろえられている。「青尾蠅」を歌う黒人霊歌が悪魔の声の代用としてヒロインに侵入してくる。

 彼女はハープシコード奏者だ。作品のなかには、クラシックを中心に多くの音楽が引用されている。それらはおおむねヒロインの内面の豊かさを映す。だが南部なまりの黒人が口ずさむフォーク・ブルースは別だった。それは混乱の引き金だ。「この男は何かが起きたことを知っている」と彼女は怖れる。黒人は彼女の機嫌を取るように、ギターの曲目をゴルドベルク変奏曲に変えてみせる。だが彼女は元にもどれない。突然の変調を語る場面も繊細な音楽を通して描かれる。作者の計算は、こうした細かい場面にも行き届いている。

 トンプスンが粗暴な加害者のモノローグによってなした貢献を、バーディンは被害者の物語を描くことによって果たした。どちらも、サイコものの先駆作だ。分身〈ダブル〉の発見という意味では、こちらがはるかに徹底している。

2023-12-15

4 もう一つの黄金時代

 4 もう一つの黄金時代

 六〇年代と七〇年代を連結して、その時代の文化事象をくくるのは乱暴な試みだ。高度経済成長の頂点と、豊かな社会を背景にした政治=文化運動の高揚。それらは六〇年代末によって区切られる。七〇年代は明白な退潮の季節だった。ドルショック、第一次オイルショックという出来事が並ぶ。経済情勢のかげりに先行して、時代意識の保守化は確実に始まっていた。解放の空気に馴れ親しんだ者にとっては、あたかも五〇年代の閉塞状況をリメイクした悪夢のごとき時代の再来とも映った。

 「偉大な社会」に向かった六〇年代の神話はいまだに記憶に鮮明だ。公民権運動の高まり、反戦運動の爆発のみでなく、文化革命の広範なエピソードに飾られた時代。

 連続よりも断絶をみるのが一般的だ。

 断絶は時代の大統領の個性によっても語られやすい。片や、暗殺されることによってさらにヒーロー伝説を華やかに飾ったケネディ。片や、不名誉なスキャンダルによって任期なかばに退場させられたニクソン。個性や政治作法の差はあっても、後者はあまりに、末代にまでわたって不人気だ。その「不愉快な」個性は、いかにも七〇年代にふさわしい陰険さだという気がする。

 しかし本書は歴史認識を主要に述べるものではないので、あえて連続面のみにしたがっておく。

 作品をふりかえってみると複雑な感慨が浮かぶ。輝かしかったはずの収穫は急速に古びてしまって、過去という額縁に収納されたように思える。時代そのものが、六〇年代も七〇年代もあえて区別しなくてもかまわないほどに、遠景に退いた。

 現在に生々しく連結してくる作品はすでにごく少ない。二つの本質的には異なる年代の差異はほとんど感じられなくなっている。

 もう一つの黄金時代でありながら、この時期の作品は明瞭な時代の顔を欠いている。さりとて時間の風化をのりこえる古典としての質を持ちえている作品は少ない。中途半端な古めかしさに居心地悪くなる。リストの選定がいくらかミステリの枠をはみ出しているのは、その理由からだ。

 これは一つに、こちらの立つ場所が目まぐるしく前のめりに「前進また前進」と駆り立てられていることにもよる。

2023-12-14

4-1 カート・ヴォネガット『母なる夜』

 カート・ヴォネガット『母なる夜』Mother Night 1961
Kurt Vonnegut(1922-2007)
池澤夏樹訳 白水社1973,飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫SF 1987.1


 第二次大戦後の戦争文学はリアリズム一辺倒に後退したという意見がある。その傾向が変容してくるのは、戦後もワンサイクル経過した後だった。

 『母なる夜』は、同じ作者の『スローターハウス5』1969(ハヤカワ文庫SF)に先行した、ブラックユーモアの戦争寓話だ。小説は、主人公の回想記の体裁を取る。彼は大戦中、ドイツに在ったアメリカのダブル・スパイだ。エルサレム旧市街の刑務所に捕らわれ、手記を執筆している。


 「生国からいえばアメリカ人、評判によればナチ、気質は無国籍」という人物。戦争犯罪人の格好のサンプルとして、自己分析のペンを取った。

 この小説がアイヒマン裁判から想を得ているのは明らかだ。ゲシュタポの高官アイヒマンは逃亡先のブラジルでイスラエル秘密警察によって狩り出された。全世界の注目する裁判の場で「自分は命令に従っただけで罪はない」と自己弁護したことでも名を残した。


 小説にも、アイヒマンは出てきて、主人公と滑稽な会話をかわす。アイヒマンは執筆について気にかけ、いくつかの助言を求める。「著作権のエージェントを使ったほうが有利なのかね?」

 短い断章のスタイルで手記は進む。テーマが帯びる深刻さとは、アイヒマンとの会話に如実なように、いっさい無縁だ。ヴォネガットのストーリー・テリングの達者さは、この作品で頂点をみせた。不景気な黒い笑い。底に沈むのは、にもかかわらず歴史への厳粛な想いだ。

2023-12-13

4-1 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』

 ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』Catch-22 1961
Joseph Heller(1923-99)
飛田茂男訳 早川書房1969 ハヤカワミステリ文庫1977、2016

 『キャッチ=22』は、戦争に付随する腐敗と狂気と官僚主義とそれらいっさいの反復を描いた予言的な作品だ。少なくともこの小説が支持を得たとき、現実を映したものとは解されなかったろう。しかし、ほどなく現実の戦争が『キャッチ=22』に似てくる、という事態が起こった。

 ヘラーが描いた、戦争基地における正気と狂気の逆転、かぎりなく無意味に繰り返される爆撃作戦。などの事柄は、やがてヴェトナムで現実のものとなる。その意味で『キャッチ=22』は、未来社会の圧制を描いたジョージ・オーウェル『一九八四年』に並ぶ、強烈なシンボル性を備えた作品だ。

 小説の舞台は、第二次大戦末期、中部イタリアにあるアメリカ空軍基地。といちおうは指定されているが、ここを真に支配するものはキャッチ22と呼ばれる幻の軍規だ。公文書がすべての事実に優先し、秘密機関が暗躍し、権力者は私欲のために戦争をとことん利用する。

 兵士たちは、一定の出撃回数をクリアすれば除隊して帰国できるだろうと夢を持つ。ところが任務回数はいつの間にか増えていく。除隊の日など永遠に訪れそうもない。「気が狂っている」というキーワードは、物語のなかに無数に出没する。使われすぎて意味を喪っているともいえる。それは、正気だという意味でもあれば、たんに無感動だという意味でもある。あるいは言葉そのままの狂っているという意味でもある。


 『キャッチ=22』に現われる、異常なエピソードや常軌を逸した人物たちに目を奪われても、おそらくそれ自体は何も語っていない。それらの集積がつくる度をこしたドタバタ喜劇。あるいは、マイロ・マインダーバインダーとかメイジャー・メイジャー・メイジャー少佐〈メイジャー〉とかシャイスコプフ(この人物は三年で下士官から将軍にまで出世する)の命名。読む者は、この世界が永遠につづく悪夢的現実の模型であるかのような錯覚におちいるだろう。

 物語に終わりが訪れるのは不思議だが、今度は現実の戦争のほうが『キャッチ=22』を模倣してきたのだ。


2023-12-12

4-1 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』

 ケン・キージー『カッコーの巣の上で』One Flew Over the Cuckoo's Nest 1962
Kenneth Elton Kesey(1935-2001)
岩元厳訳 冨山房1974、1996.6 白水社2014.7


 『カッコーの巣の上で』は、六〇年代に集中してくるアメリカ実存小説のなかで、とりわけ優れたものとはいえない。ただ寓話性の率直さでは上位にくるものだ。個と全体との対立は、ここでは精神病院内で自由を求める患者たちと病院体制との闘いに置き換えられている。病院は画一社会(コンバイン)とほぼ重なる。患者たちが善玉、病院の医師、看護士、看取は悪玉だ。反抗のリーダーになるのは、マクマーフィという赤毛の男だ。

 物語は患者の一人、ブロムデン酋長によって語られる。アメリカ先住民の彼は、善玉のなかでもアウトサイダーに位置する。出来事の正確な証言者になろうと努めているらしいが、時どきそう


できないことを自ら露呈してしまう。彼は自分の語ることが真実に相違ないという。だが、すぐそばから「起こっていないとしても」とつけ加えずにはおれない。

 彼は、他の患者と同様に間違って病院に監禁されている人物かもしれないが、じっさいに狂っていて、彼の語るすべての物語は狂人のゆがんだ主観に投影された出鱈目だという可能性もある。彼は、霧の中にある感覚を訴え、記憶に障害があるような記述も残す。彼の狂気が演技なの


か、真実なのか物語の受け取り手には判断のつかないところがある。

 狂気は精神病院が舞台であるこの物語においては日常化しているから、『キャッチ=22』のようにキーワードとして繁出してこない。正気と狂気の反転は、『キャッチ=22』のようには起こらない。この点は、『カッコーの巣の上で』の明快さだが、小説の深みに欠けるところにもなった。語り手は仲間の患者たちを三つに分ける。自由に歩きまわれるウォーカーズ、車椅子の必要なウィーラーズと、病状の深刻なヴェジタブルだ。


 キージーの寓意はむろん、この社会全体が精神病院化しているという訴えにある。しかしそうした率直さは、時代を離れてみると色褪せるのも早かった。ともあれ六〇年代そのものを感じさせる証言だ。

2023-12-11

4-2 ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』

 ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』The Wycherly Worman 1961
Ross Macdonald(1915-83)
小笠原豊樹訳 早川書房1962.12 ハヤカワミステリ文庫1976.4

 マクドナルドは戦後に活動したミステリ作家のうちで最も重要な一人だ。しかし彼の作家的頂点が六〇年代にかかっていることは、彼自身にとってそれほど幸運とはいえない。ミステリはふたたびの黄金期ともいえる活況をむかえていたが、他方では、新しいものを何も産んでいない。時代状況との距離は甚だしかった。安定した市民社会の陽の部分を反映していたわけだが、それは六〇年代の激しい文化革命とは隔たった場所だった。

 そうしたなかでマクドナルドは技法的完成を遂げる。探偵〈ヒーロー〉と社会との関係を定位する独特の語りは、彼以外の何者も成しえなかった深みに達する。だが作家が己れの世界を究めていったとき、時代は先へさきへと疾走していた。

 マクドナルドのジャンル的貢献は二点となる。一は、主人公としての探偵〈タフガイ〉の語りの手法を極限にまで高めたこと。二は、ハードボイルド派が追放したはずのトリック要素を貪欲にとりこんだこと。

 一については、「ハメット‐チャンドラー‐マクドナルド」スクールという系譜をたてる説を訂正しておいたほうがいい。たしかに都市小説の書き手としてチャンドラーとマクドナルドは傑出している。そのことは彼らの作品の「文学的価値」を示すが、作品世界の近似までは証明しない。チャンドラーはヒーローとしての探偵という小説世界を美しく完成した。追随者で彼を超えた者はいない。その部分では、マクドナルドは彼を継承していない。

 マクドナルドが新しくつけ加えたのは、全能の語り手という独特の技法だ。彼は語り手を他の登場人物とは異なる次元に置くことに成功した。探偵は存在するけれど、現存しない。彼は彼の語る事件のなかに「遍在」している。私〈アイ〉の行動は描かれても、彼はその世界で他の人物と同じ様にふるまっているのではない。探偵は、物語にたいしては全能者、描かれる事件にたいしては傍観者である、という二重性にいる。

 その複雑な位置は、『ウィチャリー家の女』のラストの犯人と対決する場面に典型的に描かれた。「魂に慈悲を乞う」犯人を前にして、探偵は、慈悲を乞うのは自分だと強く感じる。犯罪を犯したのは犯人でも、その犯罪世界は探偵の所有になる。事件はすべて探偵に属している(ここまで探偵存在を特権化した書き手は彼の他にいない)。

 探偵の人格についてマクドナルドはクイーン的問題に悩まされることはなかった。その点はチャンドラー主義の恩恵をこうむった。ヒーローとしての探偵の透明化、非在化。画面全体に貼られるシートのような人物に変えたのだ。

 だが題材としては、クイーンを継いだ側面が大きい。戦後青年の苦悩を描き、家族のなかの不幸な娘を描き、反抗する息子を描いた。どの事件も過去の土壌から滲み出してくる記憶に彩られていた。彼の最盛期の作品がどれもよく似た印象を持つのは、透明な探偵が絶対的に君臨しているからだ。事件はどれも同じ紋章になる。方法の完成によって、作家は少なくないマイナスも引き受けることを余儀なくされた。

 二については、『ウィチャリー家の女』の替え玉トリックを例にとれば、わかりやすい。仔細は省くが、リアリズムを是とする小説世界に「誰某に化けた(変装した)誰某」が登場すること自体、驚きだ。非現実性をものともせず、作家がこうしたシチュエーションを描き入れるのはなまなかのことではない。

2023-12-10

4-2 マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』

 マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』A Stranger in My Grave 1960
Margaret Millar(1915-94)
榊優子訳 創元推理文庫 1988.5

 ミラーマクドナルドは奇蹟の夫婦作家といえるだろう。
 いっけん似たところのない彼らの作品は、深い部分で共鳴し合っている。マクドナルドはシリーズ作品をずっと書きつづけたが、ハードボイルド・ヒーローの戒律にしたがうことによって、喪ったものは大きかったとも思える。作品はまったく異質でも、妻は夫が描きえなかった世界をより究めていったのではないか。ミラーのほうが息長く書きつづけたから、それだけ作家的容量は上だったと印象される。
 ミラーの後期の作品は、その意味で興味深い。マクドナルドが最後の作品を書いて以降の三作。「同行二人」で書いていたペースが崩れ、ミラー一人の執筆に切り替わった時期。『明日訪ねてくるがいい』1976(早川書房 ハヤカワ・ミステリ)、『ミランダ殺し』1979(創元推理文庫)、『マーメイド』1982(創元推理文庫)は、同じ私立探偵キャラクターを使ったシリーズだ。話はどれも失踪人捜しだが、微妙に作家夫婦の晩年を映し出しているようにも読める。

 とはいえミラーの代表作も、中期にあるとするのが定説だ。『見知らぬ者の墓』に始まり、『まるで天使のような』1962(ハヤカワ・ミステリ)、『心憑かれて』1964(創元推理文庫)と並ぶ。

 初期作品『眼の壁』1943(小学館文庫)、『鉄の門』1945(ハヤカワミステリ文庫)、『狙った獣』(この三作しか翻訳されていない)にあった、重苦しく強引なプロット運びは安定したものになっている。

 『見知らぬ者の墓』の発端には、自分の墓の夢を見るヒロインが出てくる。墓標の日付は四年前。彼女は混血の私立探偵に調査を依頼する。この私立探偵は調査人とはなるが、役柄も性格も蒙昧な人物で、むしろ狂言回しといったほうがいい。彼は自分が何者かよく知らない。『八月の光』のジョー・クリスマスに似た男だ。この作品は、マクドナルドの数少ない非シリーズ小説『ファーガスン事件』1960(ハヤカワミステリ文庫)との対応が顕著だ。どちらもメキシコ系アメリカ人の問題に踏みこんでいる。完成度はミラー作品が上だ。民族混血というフォークナー的な悲劇の根は、カリフォルニアにも存在する。それを凝視する力はミラーが勝っていた。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...