ラベル

2024-02-06

3-3 フレドリック・ブラウン『彼の名は死』

 フレドリック・ブラウン『彼の名は死』His Name Was Death 1954
Fredric Brown(1906-72)
高見沢潤子訳 東京創元社クライム・クラブ1959 創元推理文庫1970.7

 ブラウンの名は、レヴィンのように戦後世代のある一面の代弁者とはならないだろう。代表作を一編選んで位置づけをはっきりさせるような書き手ではない。『彼の名は死』は叙述トリックに関する参考作品になる。『死の接吻』は三部構成で古典悲劇を狙ったが、見事に失敗した例だと思える。金持ちの令嬢を道具にしそこねて殺す話では悲劇にはなりがたいし、第一部の犯人の正体を伏せた叙述も部分的な効果に終わっている。

 『彼の名は死』は、各章の視点人物を交替させ、章題にその人物名をつけた。技法の冴えのみで記憶されるようなテキストだ。話はかんたん、贋金つくりの業者がはまった底なしの罠を追いかけていく。流失した札を回収するために彼がとった行動はことごとく裏目に出る。さして登場人物の多くない話に、多数の語り手が現われてくる。最後の章に出てくるのは「死」〈デス〉だ。死という名の男が顔を出すにおよんで物語は終局をむかえる。表向きの話の裏にひそんでいたものが暴かれ、鮮やかなひねり技によってページが閉じられる。ブラウンのミステリの持ち味は均一だ。

 取り出せるような「思想」は何もない。ミステリ作家というより短編作家。ショートショートの書き手、SF作家としてのほうが影響が強い。ラストの効果は短い作品ほど際立っている。「奇妙な味」の短編の代表とみなすほど刺激は強くない。日常性の表層を滑空して、イメージを逆転する技を得意とする。

 ミステリの設定だと、その逆転がややこじんまりとしすぎるところがある。視点の転換と名前を一致させるテクニックは、今日ではさして珍しくない。見るべきは、小説とはモザイク状の章を組み合わせてつくるパズルだとする、ブラウンの方法だ。叙述トリックの見事な例は、ほぼ同じ時期に出現してくる。比べれば多少インパクトに欠けるとはいえ、『彼の名は死』は忘れがたい作品だ。

2024-01-04

3-4 チェスター・ハイムズ『イマベルへの愛』

 チェスター・ハイムズ『イマベルへの愛』For Love of Imabelle(A Rage in Harlem) 1957
Chester Himes(1909-84)
尾坂力訳 早川書房HPB 1971.4

 警察小説の選択はマクベインにとって、人気作家への道だった。

 だがフランスの地にあって、ほぼ同時期、ハーレム警察小説シリーズを書き始めたハイムズにとっては、成功はもっと複雑な意識をもたらす出来事だった。ハイムズの自己発見は刑務所でなされた。ライトの同世代として抗議小説を何冊か書いた。それらは黒人文学史のページには残っているけれど、作家には幻滅と失意しかもたらさなかった。彼はパリに渡る。

 その位置は、同じくパリにあって、ヘンリー・ジェイムズ的ヨーロッパ巡礼小説『もう一つの国』1962(集英社文庫)を書いた、もう一人の重要な黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンとも異なっていた。

 後に「レイジ・イン・ハーレム」と改題される『イマベルへの愛』には、二人の刑事コンビが登場する。棺桶エドと墓掘りジョーンズという名前といい、銀メッキの銃をやたら撃ちまくりたがる習性といい、コミックブック風のキャラクターだ。明らかに脇役だった人物が、以来、ハイムズのシリーズ主人公となっていく。作者の意図とは離れ、彼らは黒人暴力男の戯画とも受け取れる。

 シリーズは、七〇年代のブラック・アクション映画流行の時期と、九〇年代のブラック・シネマ時代と、二度、映画化されている。後者の、スタッフ、キャストともアフリカ系アメリカ人で固めて創られた『レイジ・イン・ハーレム』が原作の精神に近いことはいうまでもない。

 ハイムズの伝記作者は、「ハーレムは、アメリカの黒い心の故郷だ」と書いている。だが、ハーレム警察小説シリーズは、ハイムズの苦い故郷喪失の証しでもあったのではないか。アメリカ黒人の体験の総体を書き得た者はいない。ライトラルフ・エリスンもボールドウィンも同じだ。アメリカの黒人作家は民族体験の全体を描くことをあからさまに期待されたが、その不可能に立ち往生するのが常だった。ハイムズもまた体験と創作の落差に悩まねばならなかった。警察小説シリーズという型は、いっそう作家に葛藤を強いただろう。

 彼は、騙されても裏切られても純な愛を恋人イマベルに捧げる無垢な男を描いた。彼のまわりで、ペテン師三人組と詐欺師の兄とがドタバタの抗争をくりひろげ、やがては自滅していく。この物語のあと、作家に求められたのはハーレムをのし歩く漫画的な風貌の刑事たちのシリーズだった。

 ハイムズは黒人固有のミステリを書いた初めての作家だ。彼の悲劇のもともすべてそこにあった。形式は人種的矛盾を鎮めることはない。人種問題をスパイスとして割り切って使うほどの余裕は、彼の時代の黒人作家には訪れなかった。


2024-01-03

3-4 デイヴィッド・グーディス『深夜特捜隊』

 デイヴィッド・グーディス『深夜特捜隊』Night Squad 1961
David Goodis(1917-67)
井上一夫訳 創元推理文庫 1967.2、1999.1


 グーディスも、フランスでの評価の高さとはうらはらに、日本ではあまり重要視されることのない「有名作家」の一人だ。そのアンバランスは、原作を映画化した監督たちのリストを並べてみるだけで明らかだろう。フランソワ・トリュフォー、アンリ・ヴェルヌイユ、ジャン=ジャック・ベネックス、ルネ・クレマン、サミュエル・フラー。

 『深夜特捜隊』は、グーディスの最良の作品とはいえない。しかし合計三作しか日本語訳が出ていない作家にたいしては、こうした議論そのものが無意味だ。最良とみなせる作品があるのかどうかも見当をつけにくい。

 作家の像は伝説化されやすいから、映画化作品の目録と、作品外のエピソードに目を引かれる。精神病院で失意の生を終えたことなどは、わかりやすい材料となる。


 『深夜特捜隊』の主人公は、ケチな不正を見つかってクビになった元警官。彼はギャングのボスに拾われるが、同時に、深夜特捜隊なる組織からもリクルートの声がかかる。その他にも、前の妻につきまとう前科者が彼を狙って動きだす。暴力と裏切りのロンドの只中に放りこまれる男の唄をうたいあげる、テンポのいい活劇だ。

 とりわけこれが作者の本領を示す傑作とは断言できない。これこそノワールの真髄などといわれたら戸惑うだろう。似たような物語は、この時期にかぎっても、いくらでも見つけられるはずだ。どちらかといえば埋もれていく作品に属する。


2023-12-28

3-4 ジム・トンプスン『内なる殺人者』

 ジム・トンプスン『内なる殺人者』 The Killer Inside Me 1952
Jim Thompson(1906-77)
村田勝彦訳 河出文庫 1990.11、2001.2
『おれの中の殺し屋』三川基好訳 扶桑社ミステリー文庫 2005.5

 トムプスンの場合も、伝説成立の事情は似通っている。こちらは作品紹介の内実が伴っている点が違う。十年ほど昔の邦訳点数はグーディスと変わりなかったが、最近、五点が追加されるほどの、再評価の勢いだ。フランスでの評判の後を追ったアメリカ本国での復活がきっかけとなった。それでも伝説が色褪せないところがこの作家の個性か。

 『現金に身体を張れ』1956でトンプスンのシナリオ協力をあおいだスタンリー・キューブリックなどは、彼のことを真正のバッドガイだと言っている。酒乱と粗野なふるまいは、創作世界のことだけではなかったのだろう。

 『内なる殺人者』は悪徳警官ものの早い時期の作品だが、そこに分類されることは少ない。この主人公は、悪事そのものによってよりも、悪事をなす内面の痛烈さで輝く。サイコ・ミステリの先駆け的な傾向が、同時代に並んでいる。マーガレット・ミラー、ヘレン・マクロイ、パトリシア・ハイスミス、ジョン・フランクリン・バーディン……。とりわけトンプスンの特別な位置は、まるごとサイコ野郎の話だという点だ。

 若い保安官補、見かけのナイスガイぶりを、間延びした愚鈍な南部なまりで隠しているが、そのもっと奥にはとんでもなく悪辣なサディストが潜んでいる。

 これはまさに二十世紀なかばのアメリカ語で書かれた『地下生活者の手記』だ。だがこの男は知性のかけらも持たず、内省などとは無縁だ。他人を痛めつけることにためらいはみせない。彼のモノローグは、ヒーローの一人称でありながら、他のミステリのヒロイズムとは通じない。タフガイはタフガイのごとく語れというチャンドラー的戒律は、スピレーンによってすら守られていた。トンプスンにとっては、タフガイの本質は変質者だ。しかも彼はそのことを隠さない。彼の語る物語はサイコ野郎の自慢話でさえある。

 彼が娼婦をぶちのめし、自らのキラーに目覚める場面は、最高に俗悪で、怖ろしい。現代の書き手のような丹念な残虐描写はむろん見られない。省略も多く、一定の検閲がはたらいてはいる。だが、ぶっきらぼうに積み重ねられる即物的な行動(殴る、蹴るなど)の平板さが、かえって息苦しさをもたらせる。特別の興奮もなく暴力を行使する男の内面〈インサイド〉は戦慄的だ。

 その上、話者は、キラーは、殺人の一件を早く報告したくてたまらないのだ。

 犯罪者(とくに殺人者)の自己顕示欲は常人の理解を超えている、とよくいわれる。彼らが、自分の行為を悔いたり反省したりすることは遂にない。彼らは、他人がその行為の「崇高さ」を知るべきだと独り決めする。誇らずにおれないのだ。

 行為そのものを語ろうと彼は焦る。《――心配するな、そのこと〈四字傍点〉もちゃんと話す。話したいんだ。起こったとおりのことをちゃんと》。これは、体裁通り読者に向かってのものではない。作者の「内なる殺人者」に向けての、文字通りの独白だ。

 しっかり眼をあけて「俺の」行為を明瞭に理解しろ。と、俺のなかに響く声。作者が奏でる深遠なエコーが、読む者にも乗り移ってくる。

 『内なる殺人者』『死の接吻』を隔てるものは、このエコーの有無だ。三人の令嬢を狙った殺人者は、たんに計画性のない道徳的失格者に映る。彼の犯罪は現実の延長にあるので、彼への嫌悪をもまた常識的なレベルにとどまる。トンプスンの主人公は、良識の彼方にいる。

2023-12-27

3-4 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』

 ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』 The End of the Night 1960
John Dann MacDonald(1916-86)
吉田誠一訳 創元推理文庫 1963.10

 『夜の終り』は、ビート世代のジャンキー・グループが犯した強盗殺人を描いたノンフィクション風の犯罪小説。作者はたんにドキュルンタルなタッチを採用するのでなく、時制を組み替えたモンタージュを駆使している。弁護人の覚え書き、被害者に焦点を当てた客観記述、死刑を宣告された犯人の手記など。

 最初に置かれるのは、四人の犯人の絞首刑を執行した役人の自慢話だ。「大仕事だったぜ」。

 死刑から始まるこの物語は、彼らの犯行の本体を巧みに先送りにする。この卓抜な語り口に作者の力量はいかんなく発揮されている。トルーマン・カポーティ『冷血』1966(新潮文庫)の先駆ともいえるし、マンソン・ファミリーによる猟奇殺人を予見したともいえよう。

 マクドナルドはもう少し後に、『濃紺のさよなら』1963(早川書房HPB)に始まる、揉め事解決屋トラヴィス・マッギーのシリーズで人気を博する。他に、『呪われた者たち』1952(早川書房HPB)、『生き残った一人』1967(早川書房)、『コンドミニアム』1977(角川書店)、『ディベロッパー』1986(集英社)などのシリアス・タイプの作品がある。また初期に多作した短編のセレクションも見逃せない。

2023-12-26

3-5 ジャック・フィニイ『盗まれた街』

 ジャック・フィニイ『盗まれた街』The Body Snatchers 1955
Jack Finney(1911-95)
福島正美訳 早川書房1957.12、ハヤカワSF文庫1979.3、2007.9


 サイコ・ミステリの発祥は、「自分の中の自分でない自分」の発見を意味していた。トンプスン的な内なる本質の凝視とは異なり、自分ではコントロールできない自分を見つけることだ。それは、一方では、旧来からあるドッペルベンガーの方向に向かう。その点は、ひとまず置いて、外から来るコントローラーがいかに造型されたかを考察しよう。

 外から人格もしくは精神を操り動かされるという恐怖。これは冷戦によって生じた特有のイメージでもある。

 『盗まれた街』の原タイトルは「ボディ・スナッチャー」。侵略SFの古典として長い生命を持つ。

 五〇年代に、英米SFは、ミステリとは少し時期をずらせて、黄金期をむかえていた。二つの領域に共通したキーポイントは社会化だ。ミステリに警察小説が根づいていくことにみられた社会意識の拡大は、SFの小説世界にも同様に起こっていた。その最も明確な現われが、異星人の侵略を手を変え品を変えて題材とする侵略ものの流行だった。


 エドガー・パングボーン『オブザーバーの鏡』1954、ポール・アンダーソン『脳波』1954、フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』1955など。

 大戦前とは別の意味で、世界は二分された。対抗する共産主義国家は異星人〈エイリアン〉にたとえられる。ファシストとの闘いよりも、苛酷なイメージが大衆化していた。これは敵側の強大さよりもむしろ、アメリカが対共産主義の第一線に立たされた状況を反映するだろう。同盟国はあっても、アメリカは冷戦の最前線に踊り出ていた。SFの設定で、前線が国内に求められるのも当然のことだった。国内のふつうのアメリカ人の脳を襲う侵略。



 『盗まれた街』の異種生命体は、巨大な豆のサヤの形態を持っている。それは大気のなかに産み落とされ、人間の肉体を模倣して成長を遂げていく。「奴らは水分を吸収して人間の形になる」。人間の肉体の多くの割合は水分から成っているからだ。

 肉体をコピーして、人間に成り代わる。コピーされた人間もどきが一つの地域を乗っ取る。一つの地域が済めば、別の地域へ。このようにして異星人の侵略がじょじょに拡がっていく。こうした被侵略のイメージは、数多くの小説や映画で反復されてきたので、ごく親しい風景のように刷りこまれている。操られた人間もどきとは、最もポピュラーなエイリアンの姿ではないだろうか。


2023-12-25

3-5 ロバート・ハインライン『人形つかい』

 ロバート・ハインライン『人形つかい』The Puppet Masters 1951
Robert Anson Heinlein(1907-88)
石川信夫訳 元々社1956.4 
福島正実訳 早川書房世界SF全集1971.1、ハヤカワSF文庫1976.12 2005.12

 侵略テーマのもう一つの傑作『人形つかい』は、いっそうの憎悪と恐怖をこめて、侵略者を造型している。異星人は灰色がかった半透明の生命体。形はナメクジそっくりだ。知性は? こんな生物に知性があるのだろうか。作者は再三、強調する。こんな生き物には知性があってはならない、と。

 そいつらは寄生虫なのだ。人間の背中に貼り着いて人間をコントロールする。人形つかい〈パペット・マスター〉だ。貼り着かれた人間は「人形」になる。魂も自分の意志も持たない人形、これもまた人間もどきの発展イメージだろう。ハインラインは侵略者と乗っ取られた者の姿をとりわけ醜悪に描くことによって、侵略テーマのイデオロギー的責務を明らかにしたといえる。


 彼の反共十字軍的体質はスピレーン以上に強固なものだった。侵略者はより醜怪に、侵略者と闘うヒーローはよりヒロイックに。冷戦小説とは、ハインラインにとって、愛国者の自衛戦争を描く一大スペース・オペラでもあった。「二〇〇七年」、任務を持った秘密捜査官が地球を救うために立ち上がる。彼らの闘いは「自衛する民主主義」というアメリカの伝統にきっちり連なっている。冷戦期を彩るスペース・カーボーイの物語には、一片の矛盾もみられない。敵をロシア人とか、共産主義者とか特定するよりも、寄生虫のイメージで通すほうが、カーボーイの愛国心を鼓舞するのに都合が良かった。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...