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2024-04-05

2-7 パット・マガー『七人のおば』

 パット・マガー『七人のおば』 The Seven Deadly Sisters 1947
Pat McGerr(1917-85)
延原謙訳 (恐るべき娘達)新樹社ぶらっく選書
大村美根子訳 創元推理文庫 1986.8


 マガーは、『被害者を捜せ!』1946、『探偵を捜せ!』1948、『目撃者を捜せ!』1949と、タイトルが即、内容を語っていてわかりやすい謎解きタイプの作品を連発した。

 (余談だが、『探偵を捜せ!』の原題「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、スピルバーグによる映画化で話題を呼んだ、天才詐欺師フランク・アバネイルの回想記のタイトルと同じだ)。

 ミステリの常道は犯人捜し。マガーはそこにひねり技を加えて、他の役割人物に照明を当てた。被害者のいない話、探偵のいない話、目撃者のいない話……。そうした一連の試みの最もうまくいった例が『七人のおば』だ。発表


時期は、すでに黄金期を少しずれて、戦後に属している。「怖るべき娘達」という初訳のタイトルが時代相を映していて、ぴったりくる。

 話はこうだ。イギリスに渡った新婚のヒロインのもとに、伯母が夫を殺して自分も自殺したという報がとどく。彼女の伯母は七人もいて、そのだれが殺人者になったのかわからない。容疑者は七人、被害者捜しと犯人捜しの相乗効果。七人も伯母さんがいるという驚きがそれを盛り上げる。ひねり技は無理なくはたらいている。

 ヒロインは夫を相手に、七人の伯母の物語を語る。これが、すなわち安楽椅子探偵ものの進行と無理なく溶けこんでいく、という仕掛けだ。報告者と探偵は夫婦。必ずしも


役割分担は明確でなくていいわけだ。「犯人」である伯母捜しは七分の一の確率ゲーム。七分の一の確率とは、破綻した夫婦のケースを教訓として学ぶことでもある。彼らが真相にたどり着くとき、同時に、いかにして夫婦の失敗を回避するかという知恵もいくらか身についているはずだ。

 『七人のおば』は、結婚案内ミステリの隠し味も備えている。《アメリカの家族に起こったことはどうにか耐えられる》という末尾の一行は意味深い。戦後風俗のスタートがここに表われている。


2-7 アラン・グリーン『くたばれ健康法!』

 アラン・グリーン『くたばれ健康法!』What a Body! 1949
Alan Green(1906-75)
井上一夫訳 創元推理文庫 1961.7


 『くたばれ健康法!』は、カー派の流れにある。初訳のタイトルが『健康法教祖の死』、それから『ボディを見てから驚け!』に変わり、現在のタイトルに落ち着いた。いずれも、もう一つ座りがよくないのは、トリックのせいか。

 これまで見てきたように、不可能トリックものは、作品世界のリアリティ補強のために怪奇趣味や心霊現象やドタバタ喜劇などを前面に立てる傾向があった。グリーンの方針は明解だ。全編、これギャグ。

 趣味は健康、仕事も健康、信仰も健康。不健康なほど健康を信じる風潮は、最近のことでなく、古くから一般的にあったようだ。犯人も被害者も容疑者も殺人の状況


も、すべて健康に関わっている。健康が殺人事件をつくり、その真相解明を阻んだのだ。

 全米に五千万人の信者を持つ健康法の教祖が射殺された。フロリダ州のリゾート・ホテル。現場はもちろん密室だった。しかも奇怪な目撃証言によれば、銃弾はプールのなかから発射されたらしい。射撃の的にはふさわしい巨体の持ち主だった。容疑者、五千万人……。教祖殺しを知って笑い死にしそうになった者が無数にいる。

 まさに健康第一主義があってこそ成立したギャグ殺人。いや、殺人的ギャグか。



タイトルも『健康法教祖の死』から
『ボディを見てから驚け!』に変わり、
『くたばれ健康法!』で、落ち着いた。


『健康法教祖の死』『別冊宝石101』 1960.7


2-8 エラリー・クイーン『災厄の町』

 エラリー・クイーン『災厄の町』Calamity Town 1942

妹尾韶夫訳 新樹社ぶらっく選書1950.4、早川書房HPB1955.7
能島武文訳(ライツビルの殺人事件 ) 新潮文庫 1960.10
青田勝訳 『世界ミステリ全集3』早川書房 1972.8
 早川書房HPB 1975.10、ハヤカワミステリ文庫1977.1
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.12

 クイーンは若くしてアメリカン・ミステリの純粋培養体だった。伝統なき社会、常に相対化される正義の観念に囲繞され、ひたすら人工的なミステリ空間での答えを求道していく。貴公子から「王」への道を歩む作者の悪戦苦闘は、そのまま才能にあふれた青年探偵の試行錯誤に映し出されていく。作家クイーンの軌跡は、探偵エラリーが成人として社会性を学び取っていくプロセスと重なり合う。作家は主人公とともに成長していった。

 クイーンの成年期は、ニューディールの改革が実を結んできたよりも少し遅れて訪れた。それは天才少年が受ける試練にも似ていた。ハリウッドに飛んでいくつかの事件を解決したあと、彼は地方に、田園地帯におもむく。『災厄の町』に始まるライツヴィルものの開始だ。予告は、エラリー・クイーン・ジュニア名義の子供向けミステリのシリーズでなされていた。

 同じ時期に、編集者、アンソロジスト、研究者、書誌学者としての仕事も開花している。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)の創刊は四一年のことだ。アンソロジーや雑誌につけた、作家紹介や作品紹介の短いコラムには、批評家としてのクイーンの炯眼がきらめいている。

 アメリカの発見はクイーンの第二期を特徴づける。田舎町に表われる人間模様が普通の人びと、どこにでもいるアメリカ人の肖像を映していた。旧家の三人姉妹という様式性はまだ残っていたが、次女ノーラとジムの葛藤を中心とする物語は、国名シリーズの稚気を大きく踏み出していた。ここにあるのは、エラリー好みの謎ではなく、人間の心理に潜む秘密だった。探偵は自己探求をつづける人物たちの一人にすぎない。

 定型ミステリのルールを解除してしまった結果、この作品には、いくらかの綻び、もしくは不安定が生じている。探偵が役割を果たせないこと、妻殺しの容疑をかけられるジムの人間像がぼんやりしていること、ジムの筆跡による三通の手紙の効果が生かされていないこと。模索はまだもどかしい達成しか見ていない。だが一歩は踏み出されたのだ。

 ミステリの自己発見はその形式の自明性のなかにしかない。そして、アメリカの自己発見とは、常に現にそこに在りながらも欠如として感受される「アメリカ人であること〈ビーイング・アメリカン〉」を発見せねばならない、という衝迫だ。アメリカ人はアメリカ人であるにもかかわらず、自分がアメリカ人であることを充全に感じられない――という独特の条件に縛られている。クイーンの苦闘は二つの方向にかかっていた。


 初期の、ミステリの形式論理のなかで自足していた問いかけは、別の外界と衝突することによってさらに錯綜した応答を強いていくのだった。


2024-04-04

2-8 ウィリアム・フォークナー『八月の光』

 ウィリアム・フォークナー『八月の光』Light in August 1932
William Faulkner(1897-1962)
高橋正雄訳『世界文学全集45』河出書房 1961
加島祥造訳 新潮文庫 1967.9
須山静夫訳 フォークナー全集9 冨山房 1968 
諏訪部浩一訳 岩波文庫 2016.10
黒原敏行訳 光文社古典新訳文庫 2018.5

 フォークナーがミステリ文献でふれられるエピソードは派生的なものに限られるようだ。先に記したような脚本家としての貢献。あるいは、狭い意味のミステリにあてはまる『ナイツ・ギャンビット』(「駒裁き」『フォークナー全集18』冨山房)への言及。多くみられるのが、『サンクチュアリ』1931という彼の最もストレートで暴力のイメージにあふれた物語を、犯罪小説としてあつかう観点だ。この作品は、しばしばミステリの名作リストにもランクされる。

 たしかにそこに登場する不能の強姦者ポパイは、同時代のタフガイ小説の類型からはみ出すばかりでなく、遠く時代を経たサイコ野郎を先取りする特異なキャラクターだ。たとえばケインの小説などとの比較も面白いだろう。

 『八月の光』の主人公の一人ジョー・クリスマスは、ポ


パイの再来ともいえる。寡黙で魂を引き裂かれたタフガイ。彼は自分が何者であるか探る能力を持たない。有色人種であるクリスマスは、どんなタフガイとも問題を共有していない。ここにこそ、フォークナーと彼の作品の重要性がある。

 白人と黒人との民族混合は、彼が一貫して追求してきたアメリカ南部のゴシック的テーマだ。白と黒との混成は決して共生ではない。混成は、しばしばフォークナーのイメージにおいて、悪夢として捉えられていた。クリスマスの日に孤児院に捨てられていた男。彼の名はそのことを意味するだけだ。白い皮膚をした混血の男。血に流れこんだ物語の過剰さに比べて、彼の内実は貧しい。貧しさそのままの出来合いの名前。彼の父親はサーカス芸人(黒人かメキシコ人だった)。彼の誕生の前に、白人女と関係したことによって殺された。クリスマスは、個人的な意味からも社会的な意味からも、だれにも歓迎されないで生まれ落ちてきた。白い皮膚と黒い心の仮面。

 性にまつわる混血への恐怖。それはフォークナーのゴシック世界を縁取る基底的な感情だ。グロテスクな混血人間は彼の作品のなかに充満している。

 黒と白とが交わる獣じみた快楽模様は、『八月の光』の底に沈んだ主調音でもある。それは、クリスマスと宗教家の中年女ジョアナ・バーデンによって演じられる。その淫乱と憎悪(彼らが愛し合っていたとは作者は保証しない)ぶりを描くのに、作者は、コミック風ともいえる大げさな比喩を連発することも辞さない。異様なほどに誇張されたイメージを多用する。

 作家はむろんレイシズムの現状について有効な答弁をしたわけではない。何らかの生産的な提言をなしえたわけでもない。作家の仕事は、彼らの運命を翻弄する巨大な力を読者に目の当りにさせることだ。フォークナーは最深度ともいえる洞察をそこに下したいえよう。

 人物としてのクリスマスにはほとんど行動の自由はない。彼は白人社会からも黒人社会からも遮断される。彼の居場所はどこにもない。自分を保護し、性的な意味だけでもパートナーとなってくれた女性を殺し、私刑を受ける。筋書きだけを取り出せば、およそ陳腐な類型にみえるかもしれない。しかし作家が言葉を尽くして投げ入れた内実は示唆的だ。

 『八月の光』のドラマは、その二人によってのみ動いていくのではない。彼らは眼前に乱舞する巨大な影のような存在であり、その背後にはリーナという素朴な人物がいる。赤ん坊を生みに町にやってきた若い女。忍耐と光に満ちた彼女を通して、二人の煉獄は救済されるといってよい。だが物語のなかで鎮められたにせよ、クリスマスによって体現された恐怖は現実にはいかなる調停も得られなかった。


2024-04-03

2-8 リチャード・ライト『アメリカの息子』

 


リチャード・ライト『アメリカの息子』Native Son 1940
Richard Wright(1908-60)
橋本福夫訳 『黒人文学全集』早川書房 1961、 ハヤカワ文庫 1972
上岡伸雄訳 新潮文庫 2022


 そして問題は黒人作家の先行的な一人、ライトに引き継がれる。『アメリカの息子』が出たとき、人種間の問題をミステリ領域で受け止めるだけの素地がどれだけあっただろうか。

 『アメリカの息子』は二つの殺人をあつかっているが、犯罪小説というより、むしろ『アメリカの悲劇』のような古いタイプの自然主義小説の近縁として読める。ドライサーの小説にライトがつけ加えたものがあるとすれば、作者のアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティのみだ、とする元も子もない見解もあるだろう。古びた人種差別抗議小説、というのがこの小説への分類項目だ。

 白人・黒人の人種対立はアメリカのレイシズムのすべてではないが、主要なものだ。現在も変わらない。何よりアフリカにルーツを持つ黒人は、合州国に自らの意志で移住してきた民族集団ではない。十九世紀のなかば過ぎまで奴隷制度を手放さなかった南部諸州は「市民戦争」に敗退したとはいえ、依然として風土に根ざす習慣を捨てていなかった。レイシズムも「習慣」と呼びうる。

 ライトは南部の生まれ。北部の都市部に移動した黒人知識人の一人。一時期、共産主義者だった。

 『アメリカの息子』の主人公ビガー・トーマスは二十歳の青年。作中では少年〈ボーイ〉と指定され、またタイトルも「ネイティヴ・サン」だ。リベラルな白人の住みこみ運転手の職を得るが、そこの娘を事故で死なしてしまう。過失を隠すために、また、殺人(と強姦)の疑いをかけられるのを避けるために、ビガーは娘の死体を地下の焼却炉で焼く。彼の犯罪は、死体隠匿によって、より殺人に近くなる。

 彼は逃亡を重ね、厳寒のシカゴの街を逃げまわった末、逮捕される。その過程で、ビガーは彼を助けた黒人娘ベシーをも殺してしまう。二件の「殺人」が彼の犯罪の内容だ。

 犯罪は、アメリカにおいて黒人であることの意味を考察するための、一つの手段だ。ライトは、『アメリカの悲劇』がとった三部構成を採用している。だがビガーの行動は典型的というより、夢幻的で孤立した印象をもたらせる。彼はどこにでもいる黒人青年ではなく、誇張されたマイナスの性格を多く負わされている。知性は平均以下、性格も粗暴で思いやりに欠ける。容貌も、黒人種の黒さ醜さが際立つ。

 デフォルメはキャラクター設定のみならず、技法処理にもみられる。作者は、故意に、自然主義的な粗野な書き方を選んでいるようだ。しかも、主人公が逮捕された後の第三部を、アメリカ黒人の運命に関する長々しいディスカッションにあてる。この小説だけ読むと、ライトが小説の技法に無頓着な素朴な書き手だと勘違いするだろう。だが、あえて作者は古い技法にしたがい、構成上の欠陥も修正せずに済ましたと思える。

 黒人のマイナス面を肥大させた人間像を問うことによって、ライトが黒人の民族性について限られたヴィジョンしか呈示しえなかったという後代の評価がある。それは誤りだ。彼ほど雄弁にそして能弁に語った者はいない。一つの犯罪は、複雑な社会構成にあって、さまざまな照明を当てられる。ビガーの選択は不可避なものであり、都市の黒人のだれにでも起こりうる状況だった。

 すでに黒人が独自性を示す文化領域は大きく拡がりつつあった。スポーツや音楽などの分野でも、黒人の活躍は目立ってきていた。しかし社会がレイシズムの環から脱却するには、まだ遠い道のりが横たわっていた。

 ライトは『アウトサイダー』1953(新潮社)においてもう一度、デスペレートな反逆者の像を描く。クロス・デイモンと名づけられた主人公は、十字架と悪魔を不吉に背負っている。彼は地下鉄事故で死んだとみせかけ、新たな身分を詐称して生まれ変わろうとする。彼もまた殺人者であり、ファシスト一人とコミュニスト二人を殺す。殺人というメタファーに表われた算術は、作者の混迷を経た思想的到達点でもあるだろう。



2024-04-02

2-9 キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』

 

キャメロン・マケイブ『編集室の床に落ちた顔』 The Face on the Cutting-Room Floor 1937
Cameron McCabe(Ernest Wilhelm Julius Borneman 1915-95)
熊井ひろ美訳 国書刊行会 1999.4

 黄金期の作品リストの最後に『編集室の床に落ちた顔』が並ぶのは、奇妙な印象をもたらすだろう。ここまで、指標的・標準的な作品、時代をするどく刻印していると思われる作品、別領域とされてきたが関連づけられるべき作品をあげてきた。この小説はとりわけ異色に映る。何が異色なのか。

 これはアメリカ産でないことが一つ。タイトルはハリウッド映画風だが、作者は亡命ドイツ人。小説はイギリスで出版された。作者はまだ二十代前半だった。七四年にイギリスで再版された。これにはジュリアン・シモンズ(油断のならない批評家で実作者)の評価が大きかったという。八一年にアメリカ版が出た。じつのところ、アメリカ版の出た年の新作として考えてもおかしくないほどの「前衛的」な作風を持った問題作なのだ。

 マケイブはペンネームだが、作中主人公=語り手の名前としても使われている。事件は映画スタジオで起こった新人女優の殺人。映画会社のフィルム編集者マケイブは、新人女優の出番シーンをすべてカットしろと、製作者から乱暴な命令を受ける。タイトルの意味はここからくる。カットされたフィルムは編集室の床に散らばる。そこにしか出ていない俳優は哀れ捨てられる運命にあるわけだ。

 次にくるのは、当の女優殺しだ。殺人現場は編集室。よくある展開と思っていると、犯行の模様が逐一フィルムに収められていることがわかる。このあたりから、話が猛烈に歪んでくる。

 探偵役のスミス警部が登場し、マケイブは容疑者の一人となる。事件の再吟味が始まる。会話のテンポはいいが、その内容はかなり難解だ。証人はそれぞれの主観から事件の様相を語っていく。当てにならない証人ばかり出てくる技法をこらしているのでもない。作者は事件を五度、六度と語り直す。ただの反復だ。視点が変わるのみで、新しい事実が出るわけではない。

 探偵はやがて宣告する。《殺人事件を解決したいのなら、自分で殺さねばならない》と。この物語で、探偵と容疑者たちとが交わす問答は、要するに、この命題のまわりをぐるぐると旋回している。渦巻き状で終わりが見えない。被害者がこの議論に加わらないことはわずかな救いかもしれない。この命題を言い換えれば「犯罪を解決できるのは、犯人ただ一人だ」となる。

 これは、作者の欲求でいえば、「探偵の死」もしくは「探偵の敗北」を意味する。べつだん鬼面人を驚かすという原理というわけではなく、チェスタトンが「犯人は独創的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」という箴言によって簡潔に言い表わしていた。つきつめると、クイーンの悲劇四部作の探偵の運命が待っている。その剣呑さは、作家を尻ごみさせるに充分だった。「探偵の死すなわちミステリの終末」と感じられたからだ。

 ミステリという自己完結的システムにおいて、モダンの絶頂とポストモダンの幕開けは、同時にやってきたようだ。同時といって悪ければ、前後をわきまえもせず、ということだ。奇想天外なトリック、叙述パターンの迷彩、意外な結末、想像を絶するドンデン返し……。などといった基本仕様は早晩、開発され尽くすはずだった。そのあとは? 気の滅入るほど長いポストモダンの歳月が、早く訪れた老年期のように待ちかまえているだけなのだろうか。

 探偵が殺せばそれは探偵の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「探偵と犯人の一人二役」などなどの命題に化ける。

 犯人が解決すればそれは犯人の敗北だ、というのはモダニズムの解釈。ポストモダニズムで言い換えると――「犯人と探偵の一人二役」。……なんだ同じじゃないか、馬鹿にするな、と言うなかれ。同一でしかも差異がある、というのがポストモダン言語のサービス精神なのだ。

 注。(言い換えのパターンは無数にあるが省略した)。

 マケイブ(作者のほう)のテキストは、少し冗長さをみせながら、ミステリの外枠を破壊して終わる。探偵も犯人も「自爆」して果てた。作者はそれでも満足せずに、末尾に非常識なほど長いエピローグ――注釈を加えている。長さは全体の四分の一。これは「キャメロン・マケイブの墓碑銘に代えて」とわざわざ注記されている。そこに並べられたのは、マケイブの手記の形を取った『編集室の床に落ちた顔』にたいする書評である。作者はその一部をやむを得ず書き直したことを弁明しているが、出典は明記している。

 テキストへの外部からの批評がテキストに合体したわけだ。これは作者が念入りに試みた入れ子細工だ。テキストを真に完成したいのなら他人の評価を内に含まなければならない――という命題の実践だ。探偵の敗北を言上げする登場人物の言い草よりも、はるかに可愛げがない。はるかに悪辣で自覚的だ。叙述トリックの諸変化に慣れてしまっている今日の読者には驚きに足らないかもしれない。しかし当時の理解者の水準を想像すると、いささか早く来すぎた試みかとも同情したくなる。

 とにかく、ミステリの原理のみでなく、テキストの成り立ちにたいしても、作者は、「形式の死」を宣告した。宣告せねば気が済まなかった。

 見事である。少々の細部の空転は我慢しよう。

 アラン・ロブ=グリエのアンチ・ミステリよりも、ポール・オースターのすかしたポストモダン小説よりも、はるかに早く、はるかに孤立していた。


2024-04-01

3 大戦後社会小説の諸相

 3 大戦後社会小説の諸相

 歴史家は「二度目は茶番だ」という警句を使いたがる。だが第二次世界大戦について、この言葉が適用された用例はないようだ。二度くりかえされた全体戦争〈トータル・ウォー〉について、気の利いた断言を加えうる者はいなかった。

 第一次大戦は二十世紀人の人間観を変えた。それは長い目でみれば、叡知を与えたともいえよう。三十年を経ずに起こった第二次大戦は、もはや叡知の源とするには大きすぎる惨禍だった。

 全体戦争〈トータル・ウォー〉は非戦闘員をまきこむ。対戦国を徹底的に破壊する。別の手段をもってする政治という範囲をはるかに超えている。全面的に勝利するか敗北するかだ。広島・長崎に投下された原子爆弾のように、戦争終結「後」のための戦術行使をためらわない。非戦闘員の死体数をも戦果としてアカウントするシステムだ。

 全体戦争〈トータル・ウォー〉は戦闘員の内面を荒廃させる。それに関わったすべての人間の意識を決定的に破壊する。

 こうした巨大な災禍にさいして人は容易に判断不能におちいる。それは、二十世紀後半の人類が立ち合った、平和と恒常的局地戦争がないまぜになった奇妙なモザイク状況だ。

 戦後アメリカ社会はリベラルな伝統を一掃する方向に向かった。国内的には、戦争の直接の被害を受けず、経済的繁栄の世界に連続していくことができた。工業力においても、資源においても、また軍事力においてもトップに立った。

 冷戦体制は新たな使命感と恐怖をもたらせた。赤狩りとは、共産主義国家の「全体主義」と闘うために動員された、アメリカ型全体主義の現われだった。非アメリカにたいする際限のない告発は、この社会に潜在していた非寛容を一気に解き放つことになる。

 アメリカ民主主義のマイナス面のみを肥大化させるうねりの始まりでもあった。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...