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2024-04-06

2-6 クレイトン・ロースン『棺のない死体』

 クレイトン・ロースン『棺のない死体』No Coffin for Corpse  1942
Clayton Rawson(1906-71)
田中西二郎訳 東京創元社1959 創元推理文庫1961.5


 カー教徒のもう一人はロースン。作品の支持率からいっても、高名さからいっても、こちらが第一の弟子だ。

 奇術師マーリニを探偵役とする長編は四作で打ち止めになった。「この世の外から」「天外消失」などの短編も名高い。最後の長編『棺のない死体』を一読すれば、あとがつづかなかった理由も納得できる。装飾過多を通り越して、不可能トリックの大盤ぶるまいが並みではない。奇術VS心霊学、奇術VS魔術。不可能趣味と怪奇趣味のオンパレードで、超現実の世界が目眩く展開する。タッチはユーモア。というか慎みがない分、スラプスティックだ。

 密室大トリックが姿を現わすのはようやくページが半


分を過ぎてからだ。前半を引っ張るのが「不死の男」。いちど死んで埋葬されたのに現実世界に舞い戻ってくる。生き返りトリックのタネ明かしはともかく、天真爛漫さはカー派の大きな長所だ。死んだ男がよみがえり、ポルターガイストが起こるところ、心霊学者に守られていたはずの百万長者が被害者(チェスタトンの皮肉の実例がつけ加えられた)となる。不死は百万長者にはもたらされなかった。

 複雑に組み立てられた謎は、幾層にもわたって念入りに解かれていく。この謎解きについていけるかで、ミステリ読者は初級と中級とに分けられるかもしれない。「単純な殺人芸術」をリアルな観点から否定し去る立場もあった。それならいっそう複雑きわまりない「殺人芸術」トリックに向かうことこそ、カー派の矜持だったろう。アイデアと筆力が湧き上がってくるかぎり、理想は果てない……。








2-6 ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』

 ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』The Red Right Hand  1945
Joel Townsley Rogers(1896-1984)
夏来健次訳 国書刊行会 1997.1、創元推理文庫 2014.1

 ロジャーズに関するデータはじつのところ貧弱だ。ここに『赤い右手』を並べるのは、カー派についての新解釈を記すためではない。関連としてはごく薄い。『赤い右手』は、これのみで記憶される一作という特別の位置づけにふさわしい傑作でもない。人騒がせな作品、というのが最も妥当な評価だろう。

 まずその文体。《今夜立てつづけに起こった一連の出来事がはらむ不可解な謎の数々のなかで、わけても重要な一つを挙げるとすれば、それはなんといっても、まんまと姿をくらましたあの醜い小男の行方だ》という一人称の書き出し。熱を帯びた主観によって、せきこんで語られる。語られる出来事は、必ずしも整理されたイメージを結んでこない。語り手は事件を起こった順に語らない(あるいは、その能力が欠如している)。自分が語りたいことを優先して語るのみだ。読み進むほどに混迷に突き落とされる。

 ハネムーン旅行中のカップルが怪異な容貌(書き出しの一行につづいて微細に描写される)のヒッチハイカーに殺される。死体の右手は切り取られていた。殺人は一種の密室状況でなされる。密室状況の証人になるのみでなく、語り手は、連続する殺人の死体発見者にもなりつづける。

 こうした叙述スタイルは、書き手が意識的に駆使するケースと、狂熱にまかせて書いた結果できてしまうケースと、二つある。前者は「叙述トリック」と呼ばれる方法。後者はたとえば、ジム・トンプスンのような札つきの作家が選ぶスタイル。『赤い右手』はそのどちらにもあてはまらない。途中で場面のつながりを無視してかかったとしか思えないトンプスンの投げやりなストーリー・テリングに似たところはあるが、少し違う。

 この小説の語り手は「信用できない話者」の典型だ。「信用できない話者」は、作者によって周到にコントロールされるが、『赤い右手』には、そうしたコントロールの形跡を見つけられない。

 読み進んでいくほどに、偶然の符号につきあたる。時間軸が前後する。場面が飛んで、またおかしなところでつながってくる。ミスディレクションと思えるモノ(たとえば語り手のなくした帽子)がばらまかれる。――それらの方法を、ほとんど作者は無自覚に使用しているようだ。

 読者のミスリードを誘う手がかりを配置することも作者の腕の見せ所だ。ところがこの作品の「ニセの手がかり」のほとんどは、推理には無関係なものだったことが判明する。これはたんに作者の技法がつたなく、下手糞なせいだ。他の理由などない。事件が進行通り語られないというのも、要するに、創作初心者のおちいりやすい傾向だった。ミスディレクションを生かせないのも計算違いによる。

 『赤い右手』は、このように駄作・失敗作の条件を山ほど備えていながら、しかし全体として統一像をもって読めてしまうという、奇跡的な作品だ。すべて綿密な計算によって書かれたのだとすれば天才の技だが、ロジャーズの他の作品が評判を呼んでいないことを考えるなら、この一作は、神が偶然に宿った唯一無二のケースとみなされるべきなのかもしれない。


2024-04-05

2-6 オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』

 オーガスト・ダーレス『ソーラー・ポンズの事件簿』The Casebook of Solar Pons  1945
August Derleth(1909-71)
吉田誠一訳 創元推理文庫 1979.7

 これもまたカー派の収穫とは別領域。

 ダーレスの名前は、ラヴクラフトの死後、その作品世界を異端の信者たちに普及しつづけた忠実な使徒として残っている。クトゥルー神話体系を書き継ぐ後継者でもあり、また師ラヴクラフトの作品を刊行する出版者でもあった。ホラー系の奇特な人物といったイメージが強いが、その活動はけっこう多彩だ。

 ソーラー・ポンズものは、ホームズ物語のパロディとして有力なシリーズだ。全七十編あるから、「聖典」(本家ドイルの作品をこう通称する)よりも数的に多い。ポンズはホームズの生まれ代わりという。聖典を忠実に模作している点も特質だ。第一短編集の発刊は四五年だが、ダーレスはすでに、二八年ごろから書き出していたという。

 作者がまだ十代のときだ。聖典はすべて読んでしまって、原作者にもう新作を書く意志がないことを確かめて、自分がシリーズを書き継ごうと決意した。この逸話はダーレスという書き手の性格をよく語っている。愛読者が決意することだけなら珍しくはないが、じっさいに書けてしまう。クトゥルー神話への肩入れも彼にとっては同位相のものだったのだろうか。美術のジャンルでは贋作家という存在は多いが、文芸領域でこの種の仕事を残している書き手は珍しい。

 「消えた機関車」という一編は、消失トリックをあつかう。ドイルの非ホームズ短編の設定を借用し、聖典ならこう書いただろうという結末をつけた。

 ホームズ物語のパロディ、パスティーシュは、それこそ枚挙にいとまがないが、生まれ代わりを称したのはダーレスだけだろう。後継者になろうとした熱意も他を抜きん出ていたと思える。

2-7 クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』

 クレイグ・ライス『スイート・ホーム殺人事件』Home Sweet Homicide 1944
Craig Rice(1908-57)
長谷川修二訳 早川書房HPB1957.6、ハヤカワミステリ文庫1976.6
羽田詩津子 ハヤカワミステリ文庫 2009.9

 ライスは、不可能趣味と怪奇趣味という二大要素を欠いたカー派の変わり種、ともみなせる。スラプスティック・コメディの側面が肥大した。

 最も有名なシリーズ主人公は、酔いどれ弁護士J・J・マローンのトリオだ。アマチュアの探偵好き夫婦ヘレンとジェイクが加わる。夫婦の素人探偵は『影なき男』のヒットの延長と考えられる路線だ。トリオは協力し合うが、肝心なところでは意地を張り、かえって事件を紛糾させていく。探偵役はたいてい、ドタバタ喜劇のプレーヤーも兼任している。

 ただしどんな書き手にしろ、ユーモアとは、うまくこしらえられた擬態であることが多い。カーのファルスに埋めこまれていた感情が多層だったように、ライスの場合も、


アルコールと事件好みのどんちゃん騒ぎの底に沈んでいるのは、胸を突かれるような哀しみだ。こうしたワンダフルな世界では、死体が勝手に移動する。死体もまた夢見る。生きていようが、死んでいようが、哀しいことに違いはない。

 『スイート・ホーム殺人事件』は、そうしたライスの主流作品からはトーンを変えている。事件そのものの派手さは抑えられ、探偵チームの日常風景がむしろ主になる。三人の子供をかかえて奮闘する未亡人ミステリ作家の隣家で殺人が起こる。彼女は執筆に忙しく、フィクションの世界にかかりきりだから、出番はごく少ない。探偵役は三人の子供だ。十二歳のエープリルを中心にして十四歳の姉と十歳の弟のトリオ。彼らがマローンのチームとよく似ているのは当然のこと。ライスの描く人物の根っ子は子供なのだから。

 彼らの探偵活動の心強い味方は、母親の作になるミステリ・シリーズだ。謎解きのヒントも大人の嘘を見破る手管も、すべてはママの書いた「J・J・レインもの」という教科書に載っている。なおかつ彼らは、母親と独り者の刑事の仲がうまく進展するようにと、いろいろ心をくだく世話好きタイプでもある。

 この作品は単発だが、ライスの世界の祈願を最も濃密に反映したものといえる。ドメスティック・ミステリ、もしくはコージー派と呼ばれる傾向は、このあたりから発した。キッチンを中心とした日常に事件が絡んでくる。ごく狭い拡がりのなかで話は展開していって、解決をみる。親しい家に招かれて家庭料理をご馳走されるような作品世界だ。

 ホーム・スイート・ホームをもじった「ホーム・スイート殺人事件〈ホミサイド〉」というタイトルにコージー派のモチーフは尽くされている。暖かい家庭料理とそれを供してくれる優しいママなんて幻想だ。幻想だからこそフィクションに描く値打ちがある。そしてそういう空間にミステリの題材を生かす試みも――。

 殺人と家庭団欒と。ミステリの歴史はさまざまの背反する空間をいとも簡単に結びつけてきた。その新たな成功が、ここから始まったといえよう。


2-7 パット・マガー『七人のおば』

 パット・マガー『七人のおば』 The Seven Deadly Sisters 1947
Pat McGerr(1917-85)
延原謙訳 (恐るべき娘達)新樹社ぶらっく選書
大村美根子訳 創元推理文庫 1986.8


 マガーは、『被害者を捜せ!』1946、『探偵を捜せ!』1948、『目撃者を捜せ!』1949と、タイトルが即、内容を語っていてわかりやすい謎解きタイプの作品を連発した。

 (余談だが、『探偵を捜せ!』の原題「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、スピルバーグによる映画化で話題を呼んだ、天才詐欺師フランク・アバネイルの回想記のタイトルと同じだ)。

 ミステリの常道は犯人捜し。マガーはそこにひねり技を加えて、他の役割人物に照明を当てた。被害者のいない話、探偵のいない話、目撃者のいない話……。そうした一連の試みの最もうまくいった例が『七人のおば』だ。発表


時期は、すでに黄金期を少しずれて、戦後に属している。「怖るべき娘達」という初訳のタイトルが時代相を映していて、ぴったりくる。

 話はこうだ。イギリスに渡った新婚のヒロインのもとに、伯母が夫を殺して自分も自殺したという報がとどく。彼女の伯母は七人もいて、そのだれが殺人者になったのかわからない。容疑者は七人、被害者捜しと犯人捜しの相乗効果。七人も伯母さんがいるという驚きがそれを盛り上げる。ひねり技は無理なくはたらいている。

 ヒロインは夫を相手に、七人の伯母の物語を語る。これが、すなわち安楽椅子探偵ものの進行と無理なく溶けこんでいく、という仕掛けだ。報告者と探偵は夫婦。必ずしも


役割分担は明確でなくていいわけだ。「犯人」である伯母捜しは七分の一の確率ゲーム。七分の一の確率とは、破綻した夫婦のケースを教訓として学ぶことでもある。彼らが真相にたどり着くとき、同時に、いかにして夫婦の失敗を回避するかという知恵もいくらか身についているはずだ。

 『七人のおば』は、結婚案内ミステリの隠し味も備えている。《アメリカの家族に起こったことはどうにか耐えられる》という末尾の一行は意味深い。戦後風俗のスタートがここに表われている。


2-7 アラン・グリーン『くたばれ健康法!』

 アラン・グリーン『くたばれ健康法!』What a Body! 1949
Alan Green(1906-75)
井上一夫訳 創元推理文庫 1961.7


 『くたばれ健康法!』は、カー派の流れにある。初訳のタイトルが『健康法教祖の死』、それから『ボディを見てから驚け!』に変わり、現在のタイトルに落ち着いた。いずれも、もう一つ座りがよくないのは、トリックのせいか。

 これまで見てきたように、不可能トリックものは、作品世界のリアリティ補強のために怪奇趣味や心霊現象やドタバタ喜劇などを前面に立てる傾向があった。グリーンの方針は明解だ。全編、これギャグ。

 趣味は健康、仕事も健康、信仰も健康。不健康なほど健康を信じる風潮は、最近のことでなく、古くから一般的にあったようだ。犯人も被害者も容疑者も殺人の状況


も、すべて健康に関わっている。健康が殺人事件をつくり、その真相解明を阻んだのだ。

 全米に五千万人の信者を持つ健康法の教祖が射殺された。フロリダ州のリゾート・ホテル。現場はもちろん密室だった。しかも奇怪な目撃証言によれば、銃弾はプールのなかから発射されたらしい。射撃の的にはふさわしい巨体の持ち主だった。容疑者、五千万人……。教祖殺しを知って笑い死にしそうになった者が無数にいる。

 まさに健康第一主義があってこそ成立したギャグ殺人。いや、殺人的ギャグか。



タイトルも『健康法教祖の死』から
『ボディを見てから驚け!』に変わり、
『くたばれ健康法!』で、落ち着いた。


『健康法教祖の死』『別冊宝石101』 1960.7


2-8 エラリー・クイーン『災厄の町』

 エラリー・クイーン『災厄の町』Calamity Town 1942

妹尾韶夫訳 新樹社ぶらっく選書1950.4、早川書房HPB1955.7
能島武文訳(ライツビルの殺人事件 ) 新潮文庫 1960.10
青田勝訳 『世界ミステリ全集3』早川書房 1972.8
 早川書房HPB 1975.10、ハヤカワミステリ文庫1977.1
越前敏弥訳 ハヤカワミステリ文庫 2014.12

 クイーンは若くしてアメリカン・ミステリの純粋培養体だった。伝統なき社会、常に相対化される正義の観念に囲繞され、ひたすら人工的なミステリ空間での答えを求道していく。貴公子から「王」への道を歩む作者の悪戦苦闘は、そのまま才能にあふれた青年探偵の試行錯誤に映し出されていく。作家クイーンの軌跡は、探偵エラリーが成人として社会性を学び取っていくプロセスと重なり合う。作家は主人公とともに成長していった。

 クイーンの成年期は、ニューディールの改革が実を結んできたよりも少し遅れて訪れた。それは天才少年が受ける試練にも似ていた。ハリウッドに飛んでいくつかの事件を解決したあと、彼は地方に、田園地帯におもむく。『災厄の町』に始まるライツヴィルものの開始だ。予告は、エラリー・クイーン・ジュニア名義の子供向けミステリのシリーズでなされていた。

 同じ時期に、編集者、アンソロジスト、研究者、書誌学者としての仕事も開花している。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)の創刊は四一年のことだ。アンソロジーや雑誌につけた、作家紹介や作品紹介の短いコラムには、批評家としてのクイーンの炯眼がきらめいている。

 アメリカの発見はクイーンの第二期を特徴づける。田舎町に表われる人間模様が普通の人びと、どこにでもいるアメリカ人の肖像を映していた。旧家の三人姉妹という様式性はまだ残っていたが、次女ノーラとジムの葛藤を中心とする物語は、国名シリーズの稚気を大きく踏み出していた。ここにあるのは、エラリー好みの謎ではなく、人間の心理に潜む秘密だった。探偵は自己探求をつづける人物たちの一人にすぎない。

 定型ミステリのルールを解除してしまった結果、この作品には、いくらかの綻び、もしくは不安定が生じている。探偵が役割を果たせないこと、妻殺しの容疑をかけられるジムの人間像がぼんやりしていること、ジムの筆跡による三通の手紙の効果が生かされていないこと。模索はまだもどかしい達成しか見ていない。だが一歩は踏み出されたのだ。

 ミステリの自己発見はその形式の自明性のなかにしかない。そして、アメリカの自己発見とは、常に現にそこに在りながらも欠如として感受される「アメリカ人であること〈ビーイング・アメリカン〉」を発見せねばならない、という衝迫だ。アメリカ人はアメリカ人であるにもかかわらず、自分がアメリカ人であることを充全に感じられない――という独特の条件に縛られている。クイーンの苦闘は二つの方向にかかっていた。


 初期の、ミステリの形式論理のなかで自足していた問いかけは、別の外界と衝突することによってさらに錯綜した応答を強いていくのだった。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...