ダン・シモンズ『諜報指揮官ヘミングウェイ』The Crook Factory 1999
Dan Simmons(1948-)
小林宏明訳 扶桑社ミステリー文庫 2002
『諜報指揮官ヘミングウェイ』は実在の人物を主人公にしたイフ・ノベルの趣向だ。第二次大戦秘話のポリティカル・フィクション。冒険スパイ小説だ。一九四二年、ハバナに住み、私設民間防衛組織を動かしていたヘミングウェイを主人公とする。物語の九五パーセントは真実だと作者は保証している。文豪の伝記に《ルーカスと呼ばれていた寡黙な男は、その名前以外、だれも彼の出自を知らなかった》とある一行が虚構の入口だ。小説は、この男に、FBI特別捜査官の身分を与え、語り手の役を振って進行していく。
この時期に関する多くの伝記の記述は、あてにならないと作者はいう。ヘミングウェイは、対ドイツの諜報組織をつくり、ハバナに潜入しているドイツ工作員や近海に出没するUボートの動きを監視していた。果たしてそれ以上の
行動はあったのか、なかったのか。
登場する実在人物は、イングリッド・バーグマン、マリーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパーなどのスターから、若き日のジョン・F・ケネディ、イアン・フレミングなど多彩だ。
作家は、スペイン義勇軍への参加体験を、ベストセラー小説『誰がために鐘は鳴る』として問うた後だった。ヘミングウエイの旺盛な作家的ヒロイズムと行動派としての飽くなき野心は、キューバという局地的情勢にあっていかなる謀略に包囲されていたのか。あるいは、されていなかったのか。
この小説は、たんに歴史秘話への好奇心をかきたてるのみでなく、ヘミングウェイ文学にたいする限りない愛惜によって裏打ちされている。《一九六二年七月二日、アイダホ州の新居で、彼はついに決行した》という書き出しの一行に、その点は明らかだ。彼を猟銃自殺にまで追いつめたもの。それが彼の個人性に帰されるのではなく、アメリカ作家を固有に襲う不可避の運命であったことを、作者はよく理解していた。
成功と名声の絶頂においてすら作家を恐怖させた不安。それは一九四二年のハバナにおいてもすでに明瞭に形をなしていた。
外界と他人へのとめどない猜疑心、タフガイの仮面のうちに隠された臆病さ。そういった個人的資質が彼を追いつめたのではない。彼はアメリカの作家をとらえる超個人的な運命に殉じたのだ。とシモンズは物語の全体をこめて表明している。