ラベル

2023-12-01

4-4 ロバート・B・パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』

 ロバート・B・パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』Looking for Rachel Wallace 1980
Robert B. Parker(1932-2010)
菊池光訳 早川書房1981.12 ハヤカワミステリ文庫1988.3


 居並ぶチャンドラー派で最も口達者な伝導者を捜すなら、だれもがパーカーの名をあげるだろう。もともとパーカーはアカデミズムの領域でハードボイルドに関する研究論文を書いていた。私立探偵小説に転身したのは、当初は、大学教員の余技としてだった。

 そこでパーカーは、都市小説の送り手として、チャンドラー、マクドナルドの有力な後継者であることを証明した。

 ボストン在住の探偵スペンサーの美点はそのストレートさにある。タフガイとしての行動を疑わず、しかもそれを弁舌さわやかに演説する。口先だけの男でないことを示す機会も逃さない。格闘術は一流、料理にも一家言を披露し、フェミニズムへの理解も浅くない。だがそれ以上に守るべき者は「タフガイの伝統」なのだ。

 比較的シンプルなプロットの取っつきやすさもあって、長命の安定シリーズとして書き継がれていくことになる。代表作は、初期の『約束の地』1976(ハヤカワミステリ文庫)か『ユダの山羊』1978(ハヤカワミステリ文庫)あたりにしておくのが、妥当だろう。


 『レイチェル・ウォレスを捜せ』は、議論小説としてのシリーズの側面を、最も明確に語っている。評判のフェミニストが身辺の護衛を、タフガイに依頼する。男の価値を攻撃してやまない信条を持つ彼女にとって不本意な選択だった。そして彼女の傭った探偵は「議論するボディガード」だった。作者がこうした設定を選んだ意図は明らかだ。

 ラディカル・フェミニズムをハードボイルド美学の引き立て役にするためだ。探偵は、自分が生まれる時代を間違えた騎士(むしろ恐竜)である、と表明する。いつもの決め科白とはいえ、相手が相手なので、ひときわ気合いが入る。物語の後半に置かれるのはもちろん、彼女の誘拐拉致と救出だ。原始的な暴力にたいして無力であることを露呈し、彼女は動揺する。動揺した「弱い女」(それが本質なのだと作者は無遠慮に断定している)を抱きとめてやるのは騎士の役目だ。

2023-11-30

4-4 ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』

 ローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』 The First Deadly Sin 1973
Lawrence Sanders(1920-98)
中上守訳 ハヤカワミステリ文庫 1982.1

 サイコ・キラーを描くミステリは『殺人症候群』に先例をみた。犯人の側から覗かれた異常心理の世界だった。サンダーズは、それを捜査側の視点から描いて、警察小説の枠を大きく拡げた。サイコ・キラーがアメリカの社会現象であるなら、要請されているのは、その現象を細大もらさず物語に描きこむことではないか。

 『魔性の殺人』は以降のサイコ・ミステリの基本型をつくりあげた。未知の狂気の殺人を捉えるために、警察機構を主人公にパノラマ的な社会小説を展開していくこと。警察は未知の恐怖から社会を守る代表機関だ。善悪対立の二元論は確固として打ち立てられている。殺人鬼が出没するニューヨークの一区域は、徹底的な解剖学的視点にさらされることになる。

 作者は、善悪の両サイドに代表人物をすえた。善のほうは、分署署長ディレイニー。組織のトップとしての役割だけでなく、勇猛さと正常さを兼ね備えたヒーローだ。いささか紋切り型におちいるほどに彼の像は潔い。悪のほうは当然、サイコ殺人鬼。彼は物語の最初から姿を見せ、その内面を綿密すぎるほどに描かれる。魔性はゆっくりと彼のなかに目覚める。

 彼がある極点にまで舞いあがりかけるのを確かめた上で、作者は、小説の場面をディレイニーの執務室に移動させる。事件はすでに水面下で進行しつつあるはずなのだが、作者のペンは悠々と主人公のまわりを巡っていく。「奴は狂人だ」と彼が断言するまでに、ページは四分の一以上を費やしている。

 犯行が動き出すと彼の姿は霧のなかに退いていく。今度は組織的な捜査の様相が生き物のように捉えられ、犀利に描き分けられていく。殺人に用いられた凶器を特定するまで費やされたパーツの膨大さを考えるのみでも、この物語のスケールを推し測るのに充分だ。読者は犯人の哀れな内面と行動についても情報を与えられる。そしてそれに数倍する分量で、彼を狩り出すための善の動きを報告される。

 この進行と、善悪を描き分ける配分とが、以降の警察小説型サイコ・ミステリの定式となった。

2023-11-29

4-4 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』

 ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ『裁くのは誰か?』Acts of Mercy 1977
Barry N. Malzberg(1939-) Bill Pronzini(1943-)
高木直二訳 創元推理文庫 1992.7

 『裁くのは誰か?』は、いわゆる一つの「大統領ミステリ」だ。

 大統領の身辺で起こる連続殺人。魔手はやがて大統領自身にまでおよぶが、大統領は持てる明敏さを総動員して事件を解決していく……。

 アメリカ国家の大統領は公選によって選ばれる最高権力者だ。民主制度の国是というのか、ミステリとは縁が深い。じっさいにリレー短編の筆を取ったルーズヴェルト第三十二代大統領もいる。

 最近では、ホワイトハウスを題材にしたポリティカル・フィクションに大統領が登場するケースも増えている。またハリウッド映画で大統領役を演じたスターのリストも年ごとに膨大なものとなる。

 大統領本人が愛読ミステリを公言することは、支持率アップのための対策でもあるようだ。レーガンはトム・クランシー。クリントンはもっとマイナーにウォルター・モズリー。現大統領はおそらく、ないだろう……。

 しかし『裁くのは誰か?』のような大統領の登場の仕方はたぶん前例がないだろう。禁じ手はあるのか否か。最高権力者とはいっても、どこかの「国王」と違ってタブーはないのかもしれない。

 少し前にトリッキー・ディックと仇名された第三十七代大統領が不名誉な形で退場している。政治家としての功績はそれなりに評価されるべきだという意見もあった。しかし悪役イメージは常に彼にはついて回った。ウォーターゲイト事件は、今では現代史の欠かせない一項目となっている。事件に関して、ニクソンは嵌められたのだという解釈も一部にはある。『大統領の陰謀』1974(文春文庫)を書いたジャーナリストの一人ボブ・ウッドワードが、データのリークを受けていたという説だ。その論拠は、ウッドワード記者とCIAおよび保守財閥とのコネクションだ(広瀬隆『アメリカの保守本流』集英社新書)。

 仮にそれが事実であったとしても、ニクソンへの同情票は集まらないだろう。自分の上を行くトリックに引っかけられたことで、さらに悪名は高まるかもしれない。

 事実でなかったとしても――。なぜ『裁くのは誰か?』のようなミステリが突如として出現してくるのか、その理由を納得できるに違いない。この小説のサプライズ・エンディングは、大統領職の聖なる椅子という盲点を利用したものだ。見えすいたトリックを隠すための裏技に大統領制度は使われた。これを読むと、カー派の馬鹿騒ぎが完全に過去のものではなく、ささやかな水脈(パズル派の伝統といってもよい)としてひっそりと息づいていることを理解できる。

 作者の一人プロンジーニは、パルプマガジン・コレクターの探偵を主人公にしたB級ハードボイルド・シリーズも書いている。アンソロジストとしても活動し、この作品からは、いかにもうるさ型のマニアぶりが伝わってくる。

2023-11-28

4-5 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』

 トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』Dance Hall of the Dead 1973
Tony Hillerman(1925-2008)
小泉喜美子訳 早川書房1975 ハヤカワミステリ文庫1995.7 


 黒人刑事、黒人私立探偵の登場は、局地的な出来事ではなかった。ジョン・ボール『夜の熱気の中で』1965 は、南部の田舎町で起きた殺人事件を解決するために、黒人刑事が奮闘する話だ。ボールの黒人刑事シリーズは後に三作つづく。

 中国人刑事チャーリー・チャンのシリーズやJ・P・マーカンドの日本人間諜ミスター・モトのシリーズを思い浮かべるまでもなく、ミステリは異人種排撃を原理的に謳っていたわけではない。作品を捜せばむしろ社会の寛容さを証拠だてる例が見つかるだろう。それでもまだ、六〇年代にいたっても、マイノリティのヒーローは充分に一般化したとはいえない。

 ボールと前後して、ケメルマンがユダヤ教のラビを探偵役としたシリーズの第一作『金曜日ラビは寝坊した』1964 を発表した。これは、短編集『九マイルは遠すぎる』をゆったりと書き継いでいた作者の、ユダヤ人コミュニティ研究の副産物ともいえる。力点はこちらのシリーズに移っていく。


 マイノリティ・ミステリの最も重要で長命なシリーズはトニイ・ヒラーマンによって、もう少し後に書かれ始める。『祟り』1970(角川文庫)に始まり、『死者の舞踏場』『黒い風』1982、『時を盗む者』1988、『聖なる道化師』1993(ともに、ハヤカワミステリ文庫)などとつづく、ナバホ先住民居留地シリーズだ。文化衝突の諸相、そして自然環境との交感。彼のシリーズが示すのは、通り一遍の共感や良識では、作家はこのテーマに立ち向かえないという当たり前のことだ。ヒラーマンはプアホワイトの家系に生まれ、インディアン寄宿学校で学んだ経験を持つ。

 アメリカのマイノリティのうちで、黒人と「インディアン」とは特別の存在だ。作者は、部族に残る風俗や伝承的儀式などを大胆に取りこんでいった。部族社会とはつまり、国家に囲いこまれた「統治地」だ。伝統も日常もそこに住む者にとっては絶えざる衝突の場なのだった。シリーズは文化人類学的アプローチがミステリに寄与する豊かな実例となっている。


2023-11-27

4-5 エド・レイシー『褐色の肌』

 エド・レイシー『褐色の肌』In Black and Whitey 1967
Ed Lacy(1911-68)
平井イサク訳 角川文庫 1969


 レイシーは最も早く、そして意識的に黒人探偵を登場させた書き手だ。『ゆがめられた昨日』の主人公の名は、トゥーサーン・ルヴェルテュールとマーカス・ガーヴェイから取られている。

 『褐色の肌』の舞台はニューヨークのゲットー。白人居住区と隣接する地域。そこで黒人少女が射殺される事件が起こった。KKKまがいの黒人差別集団が動き始める。

 若い黒人刑事リーは相棒のユダヤ人アルとともに潜入捜査を命じられる。物語は彼の視点から語られていく。社会運動家を装って潜入した彼らの前に、ゲットーの現実がたちふさがる。この作品の背景にあるのは、六〇年


代後半に頻発した人種都市暴動だ。

 とはいえ、物語そのものはドキュメンタリー・タッチで淡々と進んでいく。ラストに到るまで派手な事件は抑えられている。テーマにたいする作者の真摯な取り組みは疑いようがない。マルコムXやフランツ・ファノンに関する議論も出てくる。作者はさまざまなタイプの黒人を描き分けるべく努めている。主人公の潜入捜査官の内面は、恋人や相棒との葛藤で揺れ動く。警察小説というより、青い青春小説の苦さが強い。

2023-11-25

4-6 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』

 ジョゼフ・ウォンボー『クワイヤボーイズ』The Choirboys 1975
Joseph Wambaugh(1937-)
工藤政司訳 早川書房 1978

 『クワイヤボーイズ』をできるかぎり簡単に説明すれば、警官版『キャッチ=22』となるだろうか。

 とはいえ、ウォンボーは元警官作家として、多少の誇張は加えたが、想像力を羽ばたかせたわけではない。彼は一時期有力な警官出身の書き手だった。素朴に体験から出発し、ヒーローとしての警官の物語を発信しつづけた。彼の作品は、警察小説というより警官小説と称されるのがふさわしい。

 『クワイヤボーイズ』の発表年がアメリカのヴェトナム敗戦と一致していることは象徴的だ。その後おびただしく描かれることになる復員兵士のトラウマの諸相が、この小説のなかにはすでに満載されている。警官こそその傷痕に率先して晒されるのだという作者のメッセージを差し引いても、痛ましい質感がある。


 物語の主人公は十人の制服夜勤パトロール組警官だ。彼らは、勤務あけの夜中に、公園で乱痴気パーティをひらいて憂さ晴らしする。それでやっと精神の平衡を保っているというわけだ。聖歌少年隊〈クワイヤボーイズ〉だ。

 十人は二人組のコンビを一単位として紹介されていく。ウォンボーの世界の特質だが、ストーリー性はごく希薄なまま、配列されたエピソードの輝きで成り立っている。輝きというより『キャッチ=22』的な狂騒だ。狂執は物語に内向するのではなく、語っている作者自身が狂っているのではないかと思わせる。「はじき」〈ロスコー〉とか「なんちゅうた」〈ワッデヤミーン〉など、彼らの通称が雄弁だ。

 そしてやりとりされる人種差別ジョークの強烈さ。まともに受け止めるとあまりに刺激が強い。レイシズム・ジョークの味わいは、最近は、かなり一般化しているようでもあるが、事は要するに、裸の差別言葉の激突だ。差別を知らず差別語にだけ堪能になるとはいかがなものか。スマートに翻訳するのは不可能な世界の会話だと思ったほうがいい。

 ウォンボーはともかく、ヴェトナム世代の影について素晴らしい饒舌さで語った。一つひとつのエピソードは、現実に即しているだろうという意味で、シンボルにはなりがたい。『キャッチ=22』のような普遍性には到らないけれど、固有の悲喜劇性はありあまるほど備えている。

2023-11-24

4-6 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』

 ジェローム・チャーリン『ショットガンを持つ男』Blue Eyes 1975
Jerome Charyn(1937-)
小林宏明訳 番町書房イフ・ノベル 1977.5 


 『ショットガンを持つ男』『狙われた警視』1976、『はぐれ刑事』1976(ともに、小林宏明訳 番町書房 イフ・ノベルズ)の「はぐれ刑事」三部作にとって、レイシズムはジョークの源泉〈ネタ〉ではない。物語のテーマそのものだ。

 三部作は、ラテン系ユダヤ系移民のファミリーとニューヨーク市警との骨肉の抗争を描く。トーンは、リアリズムとは少し違う。ファミリーとはいえ、ゴッドファーザー風のホームドラマの構成もない。犯罪集団も現場の刑事も同じ運命共同体の一員だ。これではとても警察小説の枠には収まりきらない。

 ラテン系ユダヤ人とは、マラーノと呼ばれるマイノリティ集団だ。マラーノのギャングの頭目パパ・ガズマンは五人の娼婦に産ませた五人の息子を持つ。末っ子のシーザーの他はみんな


知的障害者だ。別名を死神〈ミスタ・デス〉と呼ばれるパパ。そしてパパを取り巻く人物たちは、ことごとく二重に疎外されたマイノリティだ。記号が二つつく。ダブル・ハイフン付きアメリカ人だ。

 『ショットガンを持つ男』の主人公は、ユダヤ系ポーランド系の刑事。対抗する殺し屋は中国系キューバ系。とだれもが二重に入り組んだ出自を持たされている。しかも刑事はユダヤ系なのに、ブロンドで青い目をしている。彼のことを怖れる情報屋の男は「青い目をしたユダヤ人なんて、悪魔に違いない」と思う。その男はアルビノで肌の白い黒人なのだ……。

 チャーリンの世界では、ジョークがそのまま人物造型に直結している。シュールレアリズムのような世界だ。彼らが、警察


と犯罪者集団とに分かれているのは表向きのこと。みな幼な馴染みで、同じ共同体に属している。刑事かアウトロウかは、大した意味も持っていない。彼らはみなグロテスクに非アメリカの世界を生きている。その頂点に君臨し、彼らを束ねるのが、マラーノのゴッドファーザーたるパパなのだった。

 彼らはコミックブックのヒーローなのか。それともポスト・レイシズムの戯画を先取りしているのか。

『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...