ラベル

2023-10-04

6-4 D・W・バッファ『審判』

 D・W・バッファ『審判』 The Judgment 2001
Dudley.W.Buffa(1940-)
二宮磬訳 文春文庫 2002.7


 『弁護』1997、『訴追』1999(ともに、文春文庫)につづく三作目。トゥローグリシャムに並ぶリーガル・サスペンス第三の男はだれか、という定説はまだない。重厚さでとればバッファは最有力だろう。

 首席判事が殺される。犯人のホームレス男は犯行を認めたあと自殺する。事件はそれで終わらずに、後任の判事も似たような状況で被害者となる。主人公の弁護士は二つの殺人に重大なつながりを見つける。法廷小説でありながら、法の番人たちが法律の外の論理によって裁かれる物語だ。法曹界という一家にあって、その頂点にいる人物は法による審判を免れてしまう。だから裁きは法の外からなされねばならない。話は非常にシンプルだ。法の外と内の矛盾、それを内側から描いてこそ成り立つ明快さだ。

 メインの話がシンプルな分、サイド・エピソードが相当に入り組んでいる。主人公の一人称に、過去の事件や回想が複雑に絡まり合ってくる。法に守られた者が法を悪用して実行した完全犯罪。それへの裁きが長い歳月をかけて、法の外から下されてくる。審判者はつぶやく。「人がなぜ復讐するのか、わかりますか。過去を変えたいからですよ」と。

2023-10-03

6-4 スティーヴン・ハンター『極大射程』

 スティーヴン・ハンター『極大射程』Point of Impact 1993
Stephen Hunter(1946-)
佐藤和彦訳 新潮文庫 1999.1
染田屋茂訳 扶桑社ミステリー文庫 2013.3

 最強の狙撃手ボブ・リー・スワガーを主人公とする四部作の一だ。『ダーティホワイトボーイズ』1994、『ブラックライト』1996、『狩りのとき』1998(以上、扶桑社文庫)とつづく。ボブ・リー四部作の焦点となっているのはヴェトナムだ。このヴェトナムはデミルやストラウブが描いたように錯綜した歴史空間だ。かんたんには解きほぐせない。ハンターは一貫して反体制白人の物語をめざす。


 『極大射程』の主人公はヴェトナム戦争の伝説的スナイパーとして登場してくる。彼は新開発されたライフルの試射を依頼される。それは巧妙な罠の第一歩だった。ラドラムの暗殺者は記憶を喪うが、ハンターの狙撃手は名誉を喪う。罠の完成に必要なのは、狙撃に失敗した彼の死体だった。彼は重傷を負わされながら逃げ延びる。

 四部作は、なぜ彼が罠にはめられねばならなかったかの深層をめぐって展開されていく。『ダーティホワイトボーイズ』は番外編だが、あとの二作は過去と現在を交差してラストの戦闘シーンに高まる。過去の焦点となるのは、ヴェトナムで彼が遭遇した戦争の実態だ。ハンターの視点は明瞭だ。責任は、汚い戦争を起こした政府と軍部にあり、兵士たちは使い捨てにされたのだと。そして戦時に消耗品だった者は平和時にも変わらずゴミ扱いされる。遺恨と未決は時間の経過によって薄れることなく、極大射程を結んで爆発してくる。

 ボブ・リーの四部作が一段落して、作者は、彼の父親アール・スワガーの物語に溯行していく。年代記は溯るが冒険譚の基調は同じだ。

 『悪徳の都』2000は、四六年、退役してきたアールがギャングの牛耳る街の浄化を引き受ける話。続編の『最も危険な場所』2001(ともに、扶桑社文庫)は、その五年後、南部の有色人種専用の刑務所をめぐって展開していく。試みとしては、コリンズの歴史もののアクション版といった色合いがある。

 ただ見逃してはならないのは次の一点。東部エスタブリッシュメントと年代記のヒーローである中西部出身白人との根深い対立という観点だ。これは人種対立ほどに明瞭ではないが、アメリカ社会を形成してきた矛盾の一つだ。ハンターのメッセージは、『クルドの暗殺者』1982(新潮文庫)、『さらば、カタロニア戦線』1985(扶桑社文庫)、『真夜中のデッドリミット』1988(新潮文庫)などの作品から少しも変質していない。

2023-10-02

6-4 トマス・H・クック『夏草の記憶』

 トマス・H・クック『夏草の記憶』Breakheart Hill 1995
Thomas H. Cook(1947-)
芹澤恵訳 文春文庫 1999


 クックは八〇年代から私立探偵小説の書き手として登場していた。暗鬱で良心的な苦悩にみちた作風だ。そちらのシリーズでも秀作はあるが、「記憶」シリーズ(これは日本での命名)が文学的ミステリとしての評判を定着した。

 少年の頃の記憶が人の一生を決定する。社会的な成功者として中年をむかえた男。彼の過去には何があったのか。初恋の少女の無惨な死。事件の真相はこれまで信じられてきた事実とは異なるのか。過去は迷路なのではない。あったとおりに語れない者を縛りつけているだけだ。彼は苦しめられ、記憶を解放するロックを一つひとつ解除していく。鍵の開け方が独自の文体と語り口を可能にした。

 シリーズとしては、次作『緋色の記憶』1996(文春文庫)


とが、頂点だろう。技巧を尽くした語りによって、一人の人間の記憶をたどるストーリーに目眩にも似た悦楽を仕込むことに成功している。暴かれる真相は物語効果の上からは、それほどショッキングなものではない。暴かれ方に酔わされるのだ。いかにも思わせぶりなカットバックでも、一流の文体によって読まされると納得できる。

 犯罪者は告白に倒錯的な悦びをいだくし、それを遠巻きにする観客は自白を目の当りにする興奮に胸を踊らせる。クックが用いた技法は、それらを二つながらに二重に満足させるものだ。読者は旧悪を告解する犯罪者になった気分まで味わうことができる。

 だれもが過去の囚人だ。その意味で、クックは、ロス・マク


ドナルドが通路をつけた失われた時を求めるプルースト的ミステリ世界を確実に継承したといえよう。

2023-10-01

6-5 ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』

ジェス・モウリー『ウェイ・パスト・クール』Way Past Cool 1992
Jess Mowry(1960-)
杉山次郎訳 講談社 1996.1


 ロサンジェルス暴動の年に発表された『ウェイ・パスト・クール』は、黒人大衆の行き場のないメッセージを発信した。ゲットーの苦い青春をレポートする鮮烈な叫び。青春といっても、ここに登場するのは、ロウティーンからミドルティーンのストリート・キッズだ。二十歳まで生き延びることが僥倖のような日常。

 ロス暴動に先立って、それを予兆するかのように、ブラック・ナショナリズム文化が花開いた。スタッフ、キャストともに黒人のつくり手によるブラック・シネマ。ブギ・ダウン・プロダクションやパブリック・エナミーなどのギャングスター・ラップ。それらは豊かなエコーとしてモウリーの小説にも鳴り響いている。アメリカ人口の十二パーセントを占めるアフリカ系アメリカ人。彼らの一部は中産階級化してい


ったが、依然として古典的な人種対立は払拭されていない。ポスト・レイシズム社会という議論はいまだに一般性を持ちえない。

 『ウェイ・パスト・クール』は、西海岸オークランドの街頭で、骨肉の争いを繰り広げる少年ギャングたちの物語だ。彼らの年齢を気にするのでなければ、特別すぐれた犯罪小説とはいえないが、類をみない小説だ。黒人が黒人に銃を向け合うゲットーの日常は何によって救済されるか。これも都市の中枢のなかのアメリカなのだ。


 ブラック・シネマの傑作としては、マリオ・ヴァン・ピーブルズ監督『ニュー・ジャック・シティ』1991、ジョン・シングルトン監督『ボーイズン・ザ・フッド』1991、スパイク・リー監督『ドゥ・ザ・ライト・シング』1989などがあげられる。他に、十二歳のドラッグ・ディーラーを描いた『フレッシュ』(サミュエル・L・ジャクスン助演)1994、四人の女銀行ギャングの物語『セット・イット・オフ』(ジェイダ・ピンケット・スミス、クィーン・ラティファ、ヴィヴィカ・A・フォックス、キンバリー・エリス主演)1996が記憶される。

2023-09-30

6-5 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』

 ポーラ・L・ウッズ『エンジェル・シティ・ブルース』Inner City Blues 1999
Paula L. Woods(1953-)
猪俣美江子訳 ハヤカワミステリ文庫 2003.6


 『エンジェル・シティ・ブルース』は、黒人女性警官の視点でロス暴動を描いた、おそらく最初の作品だ。

 ジャスティス(正義)という名の女刑事の物語は、肌の色のみでなく女性ハードボイルドの流れにおいて支持を受けたようだ。小説の原タイトルはマーヴィン・ゲイの『インナーシティ・ブルース』からとられているが、七十年代のヒット曲が歌いあげたメッセージと今日の現実とは、大きな落差がある。

 暴動鎮圧にかりだされたヒロインは街頭で殺人事件に遭遇する。その被害者は彼女を過去の因縁に深い関わりを持つ男だった。当初、容疑者とみなされた黒人医師に彼女は複雑な思いをいだく。過去と現在と、彼女の置かれた双方向の圧力はストーリーを手堅く転がしていく。暴動は後景にしりぞき、始まるのはヒロインの物語だといってよい。

 人種対立の現状がどうあれ、マイノリティ主人公は無視しえない勢力となってミステリの一角を占めている。サンドラ・スコペトーネ『狂気の愛』1991(扶桑社文庫)は、レズビアンの女探偵。マイケル・ナーヴァ『秘められた掟』1992(創元推理文庫)は、ゲイのヒスパニック弁護士。スチュアート・カミンスキー『冬の裁き』1994(扶桑社文庫)は、ユダヤ系刑事。S・J・ローザン『チャイナタウン』1994(創元推理文庫)は、中国系私立探偵。などとリストを連ねれば多彩だ。彼らの現状報告は、部分的には、民主主義社会への観方を変える。


2023-09-29

6-5 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』

 マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』Evil Eye 2003
Michael Slade
ジェイ・クラーク(1947 - )を中心とするチーム作家のペンネーム
夏来健次訳 文春文庫 2003


 スレイドはカナダの作家だ。彼の作品群がひどく概括しにくいのは、作者が共作チームだからでもある。複数の作品を無理やりパッチワークしたように長く、付属データが度を超して膨大にある。あるいは、その良識性の完璧な欠如。度外れた下品さとは、それはそれでプラス評価の場合もあるけれど、それはスレイドの一面でしかない。

 スプラッタ・パンクを自称する一派がホラー・ジャンルにはいるが、スレイドの残虐描写の徹底性はこの派に似ている。ただただ自己目的のようにぎたぎたの血みどろ場面(とエロ)が追求される。加えてスレイド作品では、あたかもサイコ・キラー博覧会のように殺人鬼たちが我が物顔に闊歩する。

 『グール』1989に展開されたヘヴィロックやクトゥルー神話への言及を、真面目に受け取れる読者はいったいどれほどいたのか。三種の連続殺人鬼がグロテスクな虐殺を競う、きわめつきのC級サイコホラー。そこにラヴクラフト風の異世界が亀裂をつくり、背後にはヘヴィメタルが轟音でとどろく、といった具合だ。キラー・マニアの精神世界を覗き見る思いで辟易させられた者も多いだろう。こうした書物にたいしては二つの態度しかない。ひざまづいて崇めるか、叩きつけて燃やしてしまうかだ。

 『髑髏島の惨劇』1994(文春文庫)は、黒魔術への傾斜から本格謎解き小説の趣向がミックスされる。その混合の凄まじさは、新しいスレイド信者をつくったかもしれない。物語の中盤で出現する髑髏島。そこに招かれた十数人のミステリ・マニア。何が始まるかというと「そして誰もいなくなった」ゲームなのだ。殺人島の殺人館で起こる、仕掛け満載のきらびやかな殺人連鎖。時代の病的な(と思える)イマジネーションがとらえる情景は果てもないように思えた。


 『暗黒大陸の悪霊』は、十九世紀の植民地戦争から始まる。ここで読者はスレイド作品がカナダという混民族国家の警察小説でもあったという一面を思い出す。要するに、アメリカン・ミステリと成立においては同じ。ポスト・コロニアル小説の一種なのだ。人物たちの家系は自然と植民地主義と人種差別をその内部にかかえる。ここでも本格好みのアイテムは無原則・無造作に使われる。「双子トリック」だ。しかしこの小説に描かれたような人種混合の「双子トリック」にはだれもお目にかかったことがないに違いない。グロテスク好みのフォークナーも、これほどの「混血の悲劇」は造型しなかった。

 過剰すぎる題材のとりこみ、誇大にゆがめられた殺人劇。スレイドの一貫して節度のない創作法は、社会にひらかれたミステリがとりうる方法の一つの極点だ。。


2023-09-28

6-5 エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』

エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』Dog Eat Dog 1995
Edward Bunker(1933-2005)

黒原敏行訳 1996 ハヤカワミステリ文庫

 バンカーの鮮烈な小説の背景には、一九九四年カリフォルニア州が採択した「スリー・ストライク法」がある。二度凶悪犯罪を犯した者は、三度目はたとえ微罪でも終身刑となる。野球ルールとは違って、ツーストライクまで追いこまれると挽回の余地はかなり少なくなる。

 バンカーによれば、人間のリサイクルはきかない。壊れた家庭に生みつけられた子供はストリートに出て非行に走る。例外のない法則だ。少年院や刑務所は犯罪者を再生産するための工場〈アニマル・ファクトリー〉だ。法律はツーストライクからの逆転ホームランを促進する効果を持つのだろうか。

 アメリカの弁護士人口の多さはリーガル・サスペンスという国際競争力を備えた商品をつくりだした。しかし犯罪者人口の多さは、ごく少なくしか犯罪者小説を生んでいない。ジャン・ジュネのようなビッグネームは別としても、ジョゼ・ジョヴァンニやオーギュスト・ル・ブルトンのような書き手はおいそれと出てこない。

 バンカーは数少ない成功した書き手だ。


 『ドッグ・イート・ドッグ』は、タイトルの意味通り、犯罪者のサークルが実社会からはぴったりと締め出されていることを描き出す。犬は犬同士、戯れ合い、喰い合うしかないのだ。しかし物語に教訓話のような余裕はいっさいない。更生の道が見えるとかいった戯言も。はっきりしているのはただ一つ。犬は犬を喰いたくて喰うのでは絶対にない、ということだ。

 前科を背負えば白人も黒人扱いだ。稼げる仕事を捜すと、同じように飢えた犬と顔を突き合わすことになる。

 行動がいっさいを語り、他には何も語らない。アメリカ小説の固いタフな真理はここに極まっている。スリー・ストライク・アウトで檻のなかにもどるのはご免だ。とすれば、犬のように噛み合いながら死んでみせるしかないのか。――答えはこの小説の行間に流れる深い哀しみにある。 












         タランティーノ『レザボア・ドッグス』Mr.ブルー役

No Beast So Fierce (1973) ストレートタイム(1978年8月) - 角川書店(のち文庫)
The Animal Factory (1977) アニマル・ファクトリー(2000年10月) - ソニー・マガジンズ
Little Boy Blue (1981) リトル・ボーイ・ブルー(1998年10月) - ソニー・マガジンズ
Mr. Blue: Memoirs of a Renegade (1999)—issued in the U.S. as Education of a Felon (2000) エドワード・バンカー自伝(2003年2月) - ソニー・マガジンズ

映画
暴走機関車(1985) - 脚本、出演
レザボア・ドッグス(1991) - 出演(Mr.ブルー役)
アニマル・ファクトリー(2000) - 共同製作、原作、脚本



『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...