ラベル

2023-10-19

6-1 ウィリアム・ディール『真実の行方』

 ウィリアム・ディール『真実の行方』Primal Fear 1993
William Diehl(1924-2006)
田村義進訳 福武文庫 1996.9

 リンジーとは逆に、このジャンルには、新規参入組が多い。こぞって『羊たちの沈黙』を超える(と謳った)世紀末的な作品を饗宴していったのだが、おおかたは宣伝倒れに終わった。


 ディールの場合も、『フーリガン』1984(角川書店)、『タイ・ホース』1987(角川文庫)といった冒険アクションがすでにある。『真実の行方』は一転して、法廷ものだ。

 カトリックの聖職者が殺される。容疑者は一人、その有罪は疑いないようにみえた。ここに介入してくる主人公の凄腕弁護士。有罪を無罪に変える法廷の魔術師といわれる男だ。真実の行方が白紙にもどったところでストーリーが進行する。O・J・シンプスン事件のような現実の判例が示したように、アメリカの裁判は真実の黒白をつけるにあたって独特のシステムを採用する。冤罪による極刑があるのだから、論理上ではその逆の、逆転無罪判決が強行されても不思議はないわけだ。有罪の人物が術策を弄して無罪を掠め取ろうとする話も少なくなかった。ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』1993(創元推理文庫)、ジョン・カッツェンバック『理由』1993(講談社文庫)など。後者は人種問題も含んでいる。

 『真実の行方』もこのパターンで、手段を選ばない弁護士が話を主導していく。これだけなら法廷ミステリだが、作者はここにサイコ仕掛けをプラスした。ただし結末には賛否両論があるだろう。

 同一パターンのもっと軽い作品はあるが、タイトル紹介は省略したい。そのアイデアはこうだ。ABCDEと五つの人格が解離した多重人格者がいるとする。Eの人格のときに犯した殺人について、記憶の連続していないAの人格は責任を取ることはできない。被疑者がAの人格として出廷すれば、彼は無罪である。……というアイデアで、気の利いた法廷サイコ・ミステリが一丁上がりになるわけだ。

 人格交換のゲーム性は、その見地からのみみるなら、恰好のミステリの題材といえよう。しかし取扱いには細心の注意が必要だ。

2023-10-17

6-1 ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』

 ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』The Bone Collector 1997
Jeffery Deaver(1950-)
池田真紀子訳 文春文庫 1999

 『ボーン・コレクター』はサイコ型の警察小説としては、久しぶりの大ヒット作となった。

 成功の要因は、一に捜査官ヒーローの独創、二に敵役キラーのバランスのいい設定にある。それだけでなく、巧みなストーリー操縦術とあざといばかりのドンデン返しもプラスした。作者は意外性にこだわりすぎる傾向もあるが、この作品ではさほど気にならない。

 ヒーローの独創とは、その肉体にある。手足がまったく動かない。事故の後遺症で四肢麻痺者になった男。これが、元市警の科学捜査専門家にして、科学捜査法とFBIふうのプロファイリング技術を兼ね備えた名探偵だ。首から下で動かせるのは指一本だけ。文字通り頭脳のはたらきだけで存在する「思考機械」だ。頭脳を酷使しすぎたストレスで発作を起こすとき最も人間的になる。

 その手足となって働く助手役には、手堅く女性警官があてられている。

 対する殺人鬼も負けず劣らず、創意工夫のキャラクターだ。犯行現場には必ずメッセージと偽の手掛かりを残していく。ボーン・コレクターという異名は彼の誇りなのだ。

 寝台に寝た「思考機械」に指示されて女性警官が殺人現場を克明に捜査する場面は、物語の一つのハイライトだ。無線でつながっている彼らの会話。彼女は手錠で縛られた被害者の遺体を調べ報告せねばならない。彼は死体の手首を切断して、証拠品として持ち帰るように命令する。こうしたやりとりは『羊たちの沈黙』が描いた捜査コンビの巧妙な発展なのだが、作者は独自のものをつけ加えたといえる。

 最新の科学捜査の成果を取り入れる点でも、作者は貪欲なところをみせた。それは頭脳活動以外の面で決定的なハンデを背負ったヒーローの造型によって、いっそう鮮烈な印象を帯びることになった。シリーズは勢いをもって、『コフィン・ダンサー』2000(文藝春秋)など早くも五作を数えている。

2023-10-16

6-1 グレッグ・アイルズ『神の狩人』

 グレッグ・アイルズ『神の狩人』Mortal Fear 1997
Greg Iles(1960 -)
雨沢泰訳 講談社文庫 1998.8

 『神の狩人』はインターネット殺人鬼を扱って成功したケースだ。失敗の例は数多くあるが、その理由まで詮索しなくてもいいだろう。ヴァーチャルな空間とリアルな殺人のスペースとがいかにして交差するか。そこにはアイデアがそのまま説得力あるストーリーに直結していかない様々な困難がある。

 セックス専門のサイト「EROS」を舞台に出没する殺人鬼。サイト会員は不特定多数に広がっているが、コアなメンバーは秘密クラブのエリートにも似た紐帯で結ばれている。セックスが物語の根幹を占めている点では、『悪魔が目をとじるまで』と双璧だ。

 サイバースペースの匿名コミュニケーション・システムが、殺人という絶対のコミュニケーションによってその匿


名性を破壊される。犯人は犯行の発端からその全身像をさらしている。その像はネット空間のものだから、リアルなレベルでは意味を持たない。サイバースペースを泳ぎ被害者を自在に物色する犯人の姿は奇妙に魅惑的で、戦慄をもたらす。インターネット時代が発明した透明人間。しかもこれは現実の一端なのだ。

 主人公がネット上で犯人との会話を試みる長いシーンが出色だ。彼は女性人格に仮想してチャットを挑んでいく。犯人は第一声を放つ。「きみの会話にはパターン化したミスがあるね。音声認識ユニットを使っているのか?」と。そう語るからといって、彼が男である証拠にはならない。会話は、両者の頭脳戦・心理戦であるとともに、サイバー・コミュニケーションのすべてがそうであるように、仮装ゲームでもある。三次元ではないが、かといって四次元まではいかない。三・五次元ほどの不徹底な、しかし未知の空間で展開するゲーム。

 『神の狩人』は新たなサイコ空間を小説にもたらせた。


2023-10-15

6-1 トマス・ハリス『ハンニバル』

 トマス・ハリス『ハンニバル』Hannibal 1999
Thomas Harris(1940-)
高見浩訳 新潮文庫 2000.4

 しかし九十〇年代全般にわたって、サイコ・ミステリに底流したトピックは「トマス・ハリスの沈黙」だった。待たれたのは人喰いレクター博士の復活だ。この点、理由は単純なヒーローへの待望の他にもう一面ある。「怪物と向かい合う者は、その深淵を覗き、同時に深淵から覗きこまれるのだ」というニーチェの言葉は、FBIプロファイラーによって別の照明を当てられた。怪物とはサイコ・キラーだ。ハリスの沈黙は、作家が「深淵から覗きこまれ」そこに招かれてしま

ったことを意味するのではないか。沈黙は怪物との争闘からの敗北を示すのではないか。レクター第三作が待たれた裏には、こうした懸念も多くあったと思える。

 七年の後、レクターは外国での逃亡生活のさなかに捕捉される。彼に不具にされた億万長者が懸賞金をかけていたのだ。FBI組織のなかで孤立を深めるクラリス捜査官もこの追跡劇に関わってくる。物語の多くの部分は、英雄が追いつめられ逆襲に出る冒険アクションに費やされる。残りは、英雄譚の念入りな注釈だ。

 ハリスは自らがきりひらいたサイコ・ミステリという領域の幕引きも兼任したというわけだ。彼は端的にいう。もはやサイコ・ミステリは成立しない、と。それは、作家の


沈黙によってではなく、別ジャンルの作品を書くことによって証明された。その事実は人を安堵させるものがある。ともかくも「怪物との争闘」にはっきりした一区切りが、作家の側から与えられたわけだから。

2023-10-14

6-2 マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』

 マックス・アラン・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』Stolen Away 1991
Max Allan Collins(1948-)
大井良純訳 文春文庫 2001.1


 伝統の欠如、誇るべき民族的記憶の希薄。アメリカ社会についてよくいわれる論点だ。この国はしばしば、国民国家としてよりも、統合国家としては変則的な、多民族社会のモデル・ケースとして考察される。とはいえ歴史功利主義はどんな社会にも発生する。アメリカと非アメリカが忠誠の証しのシンボルにされた時代もあった。それほど昔のことではないし、完全に払拭されたわけでもない。

 功利主義は、教訓を過去に求めようとする。伝統がなければ、あったように取り繕う。現在の正当化に都合のいい項目のみを過去から拾ってこようとする歴史教育は、どこの国でも至便な支配イデオロギーであるだろう。

 『リンドバーグ・デッドライン』は実話をもとにした現代史物語だ。ネイト・ヘラーという私立探偵のシリーズ主人公を現実の歴史的事件に噛み合わせて「時代」を再構成する試み。歴史ノンフィクションに私立探偵小説の風味と必要最小限の虚構〈フィクション〉を割りこませる方法だ。


 これは多くの書き手が手軽に選ぶ方法だが、コリンズの場合は、ファクトを取り入れる割合が比較的大きい。想像力は限定されるが、それだけ安心して読める。事実に依拠している部分が多いので、むしろ歴史ミステリと受け取れる。

 本作は『シカゴ探偵物語 悪徳の街1933』1983(扶桑社文庫)から数えて五作目。題材はリンドバーグ事件だ。飛行機による大西洋横断に初めて成功した、「翼よあれがパリの灯だ」の空の英雄リンドバーグの愛児誘拐事件である。よく知られた二十世紀のトピックに新発見の事実とかがつけ加えられるのではない。再構成されたエピソードのはざまに、フィクションの人物が孤独なダンスを踊る。私立探偵という人工的な存在の居場所はミステリのステージからじょじょに消えていった。もはや彼にとって最適の場所とは、過去の実話のなかだけかもしれない。歴史上の人物の列に配されることによって、やっと彼は、現実味を取りもどすのだ。


 ここには、ハードボイルド都市小説の可能性についての控え目な提言が見い出せるだろう。


2023-10-13

6-2 ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』

 ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』White Jazz 1992
James Ellroy(1948-)
佐々田雅子訳 文藝春秋 1996.4 文春文庫 1999.3


 歴史はもうもう一人のタフガイによって、別様の再構成を試みられている。彼は慎み深さとは最も遠い人物だ。彼は起点を五〇年代に求める。
 それ以前の歴史には興味がないのか、あるいはまったく無知なのかもしれない。エルロイの疾走(暴走?)はすでに、『ブラック・ダリア』において始まっていた。ロサンジェルス年代記は、『ビッグ・ノーウェア』1988、『LAコンフィデンシャル』1990(ともに、文春文庫)とつづいて、ここに完結した。殺意と怨念の原点たる五〇年代。彼に、彼にのみ特有の、損なわれた時代。スピレーンの暴力的夢想とマッカーシー議員の妄想プロパガンダに隈取られた時代。彼の呪わしいノワールの原点はそこだ。

 猟奇殺人と「アカ狩り」とセックス・スキャンダル。――男が男であった時代? エルロイの主人公はさらに悪徳警官タイプに求心してくる。制服を着てバッジをつけた悪党が跋扈する暗黒の「神話」。年代記の文体もまた彼のなかで沸騰してくる。記事、報告書を適宜さしはさんでいくモンタージュの方法ばかりではなく、ストーリーの叙述も変容する。過剰で歪んだ情念の物語は、切り詰められたスタイルに押しこまれる。修飾語を削り取った文章は前のめりに切迫する。心象風景を凝縮する名詞がぶつ切りのまま投げ出される。真っ黒〈ノワール〉なかたまりがページを埋め尽くす。


 『ホワイト・ジャズ』はその完成体だ。暴力の詩人。センテンスは構文をていするより先に断ち切られ、爆発を繰り返す。科白とト書きだけのシナリオ状態の描写。

 《焼ける。熱く/冷たく――首筋、両手》

 ――これはほんの一例だ。断片は解体された人間の正確な反映かもしれない。暴力の使徒となってばらばらに壊れてしまった人間像。

 待てよ。これはどこかで見かけた「風景」なのではないかと思う。そうだ。ハメット、ヘミングウェイ、ドス・パソスが試みたこと。エルロイはそれ以上の極地を求めたのだろう。結果がパロディに随したかどうかについては諸論がある。だが、叙述の外面は破壊されてしまっても、彼のなかの悪辣なストーリー・ライターと歪んだ歴史修正主義者は生き残っている。

 エルロイはある種のエッジを示してはくれる。もちろん登りつめた頂上からどうやって降りるかは、まったく別の問題だ。

2023-10-12

6-3 デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』

 デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』The Boy Who Never Grew Up 1991
David Handler(1952-)
北沢あかね訳 講談社文庫


 とはいえ、コリンズやエルロイの試行は例外とみなしておくほうがいいだろう。歴史は、とくにミステリ作家にとっては、もう少し自在なキャンパスとして受け止められているはずだ。イマジネーションを投げこむ場所が煉獄であったりすれば、無事にもどってくることが難しいからだ。

 ノスタルジアは重要な標識だ。安全か否かを保証してくれるという意味でも。

 ジョン・ダニングが古書マニアの警官を主人公に出世作『死の蔵書』1992を書いたときも、稀覯本の世界にまつわる堅固な過去イメージを利用することができた。

 ウォルター・モズリーは、彼の人種的テーマと創作を調停するために黒人私立探偵の主人公の物語を五十年代の近辺から始めた。『ブルー・ドレスの女』1990から始まるシリーズに過剰なところは何もない。かえって、そうした設定はモズリーが人種問題の現在を慎重に回避するのに役立っている。

 ジェイムズ・サリスも黒人私立探偵のシリーズを問うているが、成立はもう少しややこしい。『コオロギの眼』1997などの作品は六〇年代の経験を再考する欲求にささえられているようだ。

 ゴーストライター、ホーギーを主人公とするハンドラーのシリーズも基調は回顧趣味にある。ホーギーは若くして「天才作家」ともてはやされて成功した。しかし才能は一発屋で終わり、もっぱらゴーストライターで糊口をしのぐことになる。彼に代作を依頼してくるのは、不思議と彼に境遇の似た人物ばかり。かつては成功したが今は尾羽打ち枯らしたひがみっぽい性格に変わっている。その人物がトラブルを抱えていて、代作仕事そっちのけで事件が進行していく、というのが常套の進行だ。

 『笑いながら死んだ男』1988では元人気コメディアン。『真夜中のミュージシャン』1989ではロックンロールのかつてのスーパースター。『フィッツジェラルドをめざした男』1991ではホーギー自身とよく似た才能の枯渇した作家。それぞれ騒動の種になる人物は似たり寄ったりだ。題材から予想されるような暗く湿りがちなところはまったくない。主人公は挫折について、お気楽なポーズを取るのみだ。得意のへらず口には少しも自虐が混じらない。何よりノスタルジアが救いになっている。扱われるのは溯った時代背景だが、ショービジネス界や音楽界や文壇のインサイドストーリーもおまけについてくる。

 『猫と針金』1991、『女優志願』『自分を消した男』1995、『傷心』1996(以上、すべて講談社文庫)と、映画界の内幕ものが多くなっていく。成功と挫折がおりなす人生の明かるみと闇。代作者を頼む者たちのほうがむしろゴーストライターのゴーストにも映ってくるシリーズの持ち味はなかなか得がたい。斜めに構えたノスタルジック・ハードボイルドにも読める。


『アメリカを読むミステリ100冊』目次

イントロダクション 1 アメリカ小説の世紀  ――1920年代まで  1 偉大なアメリカ探偵の先駆け   ジャツク・フットレル『十三号独房の問題』1905   メルヴィル・D・ポースト『アンクル・アブナーの叡知』1918   シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925   ア...